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2012/10/26

<トピックス>切手に描かれたソウル 第27回 「馬術競技」                                                 郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に描かれたソウル 第28回 「北岳山」

        88年ソウル五輪成功のための寄付金付き馬術競技切手

◆ソウル五輪開催時に新競馬場建設◆

 韓国人歌手、PSY(サイ)のヒット曲「江南スタイル」のミュージックビデオは、“乗馬ダンス”が見る者に強烈な印象を与え、動画投稿サイト「ユーチューブ」で約5億回という驚異的な再生回数を記録した。

 この“乗馬ダンス”は、江南に住む金持ち(のお坊ちゃま)を“乗馬をする人”というイメージで表現したそうだが、実は、いわゆる江南エリアには馬術競技のための本格的なスペースはないのではないかと思う。

 馬術競技の頂点は競馬だが、韓国における競馬の歴史は1898年5月に行われたロバの競争から始まるといわれている。

 いわゆる賭博の一種としての競馬は、日本統治時代の1920年、ジョセオン競馬場で行われたのが最初で、1922年には社団法人朝鮮競馬倶楽部が設立された。

 本格的な競馬場としては、1928年に東大門区の新設洞に建設された新設競馬場が最初で、1933年には半島各地の9競馬場を傘下に置く朝鮮競馬協会が設立され、朝鮮競馬令に基づき、全国の非法人競馬団体による競馬は禁止された。

 朝鮮競馬協会は、1942年に朝鮮馬事会に改組され、1945年の解放を経て、1948年に大韓民国が発足したことを受けて、1949年、韓国馬事会(KRA)となった。これが、現在の韓国における競馬主催団体である。

 1950~53年の韓国戦争では共産側の攻撃により、各地の競馬施設は破壊され、競走馬のみならず繁殖用も含め、多くの馬が北側に持ち去られるなどしたため、競馬の開催も休止を余儀なくされた。

 1953年に戦争が休戦になると、翌1954年から競馬も再開。5月8日の最初のレースでは、出走した馬の大半はポニーだったという。

 競馬の再開にあたり、競馬場は新設洞から漢江北岸のトゥクソムに移転。以後、ここが、いわゆる競馬を含む韓国馬術競技の中心地となった。

 ちなみに、ソウルメトロ2号線のトゥクソム駅は、1983年9月16日に開業したが、当初、駅名は“競馬場前”となる予定だった。しかし、この時点ではすでに、競馬場の移転が計画されていたため、現在の駅名になった。

 トゥクソムから競馬場が移転することになったのは、1988年のソウル五輪に合わせて国際規格の競技施設が必要となったためで、新たな競技場はソウル市の南に隣接する果川市に建設された。

 果川の施設は、1986年のアジア大会と1988年の五輪大会の馬術競技が行われた後、1989年9月、周辺一帯を含めてソウル競馬公園(いわゆるソウル競馬場は、その敷地内にある)としてオープンした。

 なお、競馬公園の最寄り駅となる、韓国鉄道公社(KORAIL)果川線(4号線)競馬公園駅は、当初の建設計画にはなかった駅だが、KRAの依頼により、KRAが建設費用を全額負担することで建設された。1994年の開業当時は“競馬場”という駅名だったが、賭博のイメージが強すぎるとして、2000年、現在の駅名に改称されている。

 果川の競馬場がオープンすると、トゥクソムの競馬場は廃止され、その跡地は、“トゥクソム乗馬訓練院”として、“ソウルの森公園”の一部に組み込まれた。乗馬訓練院は気軽に乗馬体験ができる施設として一般に開放されているが、レッスンは韓国語でしか行われていないため(外国語対応のコースはなし)、日本人観光客の場合は経験者ではないと騎乗は不可能である。

 ソウル五輪に先立つ1986年3月25日、五輪の資金を集めるために発行された寄付金つき切手の1枚には馬術競技が取り上げられた。切手の原画が制作されていた時期には、まだ、果川のコースは工事中だったろうから、切手のデザイナーは、トゥクソムで取材して原画を作成したのだろう。ただし、過去のいきさつを知らない人が見たら、五輪の記憶ともあわせて、現在のソウル競馬場を連想するかもしれない。