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2013/01/18

<トピックス>切手に描かれたソウル 第28回 「北岳山」                                                 郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

◆07年一般立入全面的に開放、青瓦台を見下ろす位置に◆

 12月の大統領選挙を控えて、今後、日本のテレビでも青瓦台の映像が流れる頻度が増えてくるのではないかと思うが、今回は、青瓦台の背後の山、北岳山に注目してみたいと思う。

 ソウルの基本的な地形は、四方を山に囲まれ、漢江が東西を流れる構造となっているが、北岳山は、その名の通り、その北側の主峰で、白岳山ともいう。花崗岩が基盤で、ソウルを囲んでいる内四山(北岳山、南山、駱山、仁王山)の中では、一番高いのだが、それでも、高さは約342㍍しかない。

 したがって、物理的に登っていくのは決して難しくはないのだが、青瓦台を近くから見下ろす位置にあることもあって、周辺一帯は特定警備地域に指定されており、3カ所の入口(馬岩・彰義門・肅靖門の各案内所)から先のハイキング・コースへは、身分証がなければ入ることはできない。

 この地域への立入規制が厳しくなったのは、1968年1月、朴正熙大統領(当時)の暗殺を企てる北朝鮮の特殊部隊(第124部隊第1中隊第1小隊)が休戦ラインを突破して青瓦台から800㍍の地点にまで侵入した“青瓦台襲撃未遂事件”の影響だ。この時、北朝鮮の特殊部隊が侵入したのは北漢山だったが、青瓦台に近い北岳山も当然のことながら規制の対象となり、事件後、およそ40年間にわたって一般国民は自由に立ち入ることができなくなった。

 北岳山への一般の立ち入りが一部解放されたのは盧武鉉政権下の2006年のことで、おそらく、その背景には、同政権による対北融和政策があったのだろう。この時は、まず、肅靖門付近の1・1㌔の区間が開放され、ついで翌2007年には馬岩案内所から彰義門までの4・3㌔の区間が全面開放された。

 北岳山の全面開放に合わせて、2007年4月5日に発行された記念切手は、山中の肅靖門が描かれている。鉛筆画風のタッチで描かれた門楼と石垣は、山中の静謐な雰囲気が良く表現された1枚だ。

 切手に取り上げられた肅靖門は別名・北大門とも呼ばれ、南大門・東大門・西大門とならぶ4大門の一つとされている。おなじく北岳山中にある彰義門は、この北大門と西大門の中間に位置する格好だ。

 北岳山中にある二つの門は、朝鮮王朝時代の1413年、風水を理由として通行が禁じられたという。日本統治時代には、朝鮮王朝による禁令は解かれたが、山中ゆえに訪れる人も少なく、さらに、1968年の青瓦台襲撃未遂事件以降、周辺一帯にはほとんど人が立ち入らなくなったため、下界の開発がどんどん進められていくのとは裏腹に、結果として、天然の森の豊かな自然が保存されることになった。

 肅靖門も長らく石門のみが残る質素なものだったが、現在では復元され、楼上からは木々の向こうに、高層ビルが立ち並ぶソウルの街並みを一望できる。全面開放に先立ち、鄭基永・文化財委員(当時)は「ここでソウル市を眺めるとソウルを愛する気持ちがわいてくるほど美しい所だ」とメディアの取材に答えていたが、たしかに、ソウルを代表する絶景ポイントであることは間違いない。

 ソウルの紅葉/黄葉はこれからピークを迎えるが、そのことを頭に入れながら、テレビの画面に映る青瓦台の背後の北岳山の木々が日々色づいていくのをチェックしてみるのも悪くない。