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2013/03/29

<トピックス>サハリン同胞福祉会館を訪ねて                                                         大同クリニック 姜 健栄 院長

  • サハリン同胞福祉会館を訪ねて①

    サハリン同胞福祉会館で暮らす老婦人たち

  • サハリン同胞福祉会館を訪ねて②

    サハリン同胞福祉会館

  • サハリン同胞福祉会館を訪ねて③

    陳升烈事務局長㊧と筆者

  • サハリン同胞福祉会館を訪ねて④
  • サハリン同胞福祉会館を訪ねて⑤

                     デニス・テン選手

◆歴史に翻弄された半生・永住帰国果たすも故郷に帰れず◆

 昨年、筆者は韓国仁川市にあるサハリン福祉会館を訪れた。サハリンからの永住帰国高齢者の療養施設である。

 1905年、日露戦争で日本が勝利し南サハリンを占領。39~45年、第2次世界大戦中、日本は韓人約15万名をサハリンへ徴用または集団募集を始めた。

 45年、日本の敗北でロシアがサハリン島を再占有。46年の人口調査で韓人は約4万3000人残留していたが、2010年には2万4993人となった。46年、ソ連地区から日本人は集団引揚が開始されたが、韓人は日本への渡行を許されなかった。56年、鳩山一郎内閣の下で日ソの国交正常化が実現し、ソ連に抑留されていた日本人は釈放され日本に送還された。朝鮮人の夫を持つサハリンの日本女性にも、家族と共に日本へ帰る道が開かれた。57~59年の2年間、帰国した日本人妻は766人、その夫と子供は1541人であった。76年、日本政府はサハリン残留朝鮮人に対し渡航証明書を発給、申請書受理についての方針を決定した。

 89年、サハリンやソ連本土韓人(ソ連籍、無国籍)の日本経由での韓国訪問が可能となる。90年、韓ロ国交が成立し、2000年には韓国政府の支援で永住帰国者用アパート(安山市、春川市など)への入居のため、900人が永住帰国した。永住帰国対象者はサハリン同胞1世代(45年8月15日以前にサハリン居住者)に限られ、一世代の配偶者および障害者子女が入居対象者にされた。

 90~2011年12月の調査によれば永住帰国者は4002人、韓国国内の福祉施設やアパートなど20カ所に居住している。母国訪問者は1万7314人で7日間の産業視察などが主な目的であった。

 58年、朴魯学(故人)と妻の堀江和子が子供3人と「白山丸」で舞鶴に入港。朴魯学は船中で書いた同胞帰還を訴える李承晩大統領あての嘆願書をもって韓国代表部公使に面会。さらに日本の法務、外務、厚生各省、日赤などに帰還を陳情。

 67年、朴魯学が7000名の帰還希望者名簿を国際赤十字、韓日両政府に送る。85年、朴魯学の招請によりサハリン韓人の「一時帰国」がはじまる。88年、堀江和子らの「サハリン再会支援会」が発足し、同会によるサハリン韓人を韓国に帰国させる初の「永住帰国」が実現した。

 89年、「議員懇」の五十嵐広三(社会党)事務局長がサハリンを訪問、帰還の協力を要請。7月、サハリン韓国里帰り支援のための日韓赤十字の共同事業が始まる。日本政府の特別基金供出金5800万円。90年、大韓弁護士会が「サハリン同胞法律救助会」を結成。94年、韓日両政府が養老院、アパート建設に合意。95年、日本政府が戦後50年記念事業としてサハリン帰国者用のアパート建設資金として33億円を拠出。

 サハリン同胞永住帰還運動は、韓日の国会議員、市民有志、弁護士らの支援運動で実現された。

 92年9月29日、ソウルの金浦空港にサハリンからの永住帰国者76人が降り立った。うち8人は女性。彼らは空港からバスで2時間ほどの江原道春川へ向かう。春川にある老人ホーム「愛の家」が帰国者たちの受け入れ先であった。帰国者の多くはいったん老人ホームに入居した上で、故郷の兄弟や親戚に引き取ってもらうことを望んでいる人が大部分であったが、92年末までに故郷に帰れた人は僅か6人しかいなかった。

 その後、永住帰国者たちは、京畿道の安山市や仁川市にあるサハリン同胞福祉会館、慶尚北道高霊郡の大昌養老院や帰国者用アパートへ移転して行った。2011年12月時点で、サハリン永住帰国者4002人が全国20カ所に入所している。

 昨年、カトリック医科大学の具教授の取り計らいにより、この福祉会館を訪れ見学することができた。ソウルや外国からの見学希望者が多く初めは筆者も許可されなかった。仁川国際空港からバスで長時間かけてようやく、ここに辿り着くと、陳升烈・事務局長に館内を案内される。

 本施設は仁川郊外の小高い山頂の風光明媚な場所に位置し、日赤病院が近くにあり、大韓赤十字社が運営に当たっている。99年3月2日に開館した。館長の下に事務長1人、嘱託医1人、看護師、物理療法士、生活指導員等が配置されている。建設時に日本赤十字からの援助があった。

 99年~2012年6月までの本施設への入所者は273人で、サハリン永住帰国者115人、一般人118人、退所者187人でサハリンへの帰国者25人、一般転出29人、死亡者133人である。現在、ここはサハリン永住帰国者のみが収容されている。4人のサハリン帰国者と話をしたが、皆さん日本語が上手で、ほとんどの方が戦前、韓国から日本を経由してサハリンへ渡っており、私と日本語で話すのを喜んでいた。

 ここに近代史の荒波に翻弄された男たちの辿った苦難の道のりとサハリン残留を余儀なくされた家族との運命の絆がある。
 
 かつてソ連領へ移住して行った同胞の後孫が最近大きな話題を呼び起こしている。先日、カナダで行われた世界フィギユア選手権大会において、カザフスタン代表のデニス・テン選手が総合成績2位となった。テン選手は高麗人を祖先とする19歳のスケーターで、ジュニア時代から国際大会の出場経験が豊富で、9歳のとき釜山を訪れている。テン選手は、日帝時代の1907年8月、ソ連領で300人の独立義兵を率いた閔クンホ隊長の後孫であるという。2014年ソチ冬季オリンピックでの活躍が期待される。