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2018/12/21

<トピックス>切手に見るソウルと韓国 第95回 全羅南道の宝城茶畑                                                         郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京都生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に見るソウルと韓国 第95回 全羅南道の宝城茶畑 

    「宝城茶畑」の観光切手(2011年)

◆韓国最大の茶所、開催中の「光祭り」も人気◆

 韓国有数の茶所として知られる全羅南道の宝城では、12月14日から年明け1月13日まで、韓国茶文化公園一帯で〝宝城茶畑光祭り〟が開催されている。今冬は、高麗王朝が1018年に宝城郡を設置してから1000年という節目の年にあたっていることもあり、さぞや地元は盛り上がっていることだろう。

 もともと、宝城の地は馬韓地域に属していたが、百済の近肖古王(在位346~75)の時代、百済に併合され〝伏忽〟と呼ばれた。新羅の景徳王16(757年)、郡県の名称が中国式に改められた際、伏忽は“宝城郡”と改称された。高麗時代の成宗14年(995年)、いったん、貝州(別号:山陽)と改称されたが、顯宗9年(1018年)の行政改革で、宝城郡の旧称に復し、現在に至っている。

 この間、新羅・興徳王(在位826~36年)の治世下で、中国大陸から朝鮮に喫茶の習慣が伝来する。この時の茶は唐の影響もあり、煎茶や団茶だった。また、茶は非常に高価で、宮廷や貴族、僧侶は嗜むことができたものの、庶民にとっては縁遠いものだった。

 高麗時代には仏教とともに茶の文化も繁栄し、慶尚南道や全羅北道の寺院では茶の栽培も行われた。しかし、喫茶の風習はもっぱら上流階級がたしなむものという事情は変わらず、大衆化しなかったため、朝鮮王朝時代に仏教が衰退すると、茶の生産量も激減して喫茶は廃れ、外国の使臣には人参茶などの茶外茶(チャノキ以外の植物などから作られる飲料)が普及した。喫茶の風習を再興しようとする動きが出てきたのは19世紀以降のことで、緑茶が登場するのは、開国後、日本人が本格的に朝鮮半島に進出するようになってからのことである。

 日本統治時代の1911年、光州市の證心寺近くの斜面に日本人が茶園を作り、翌1912年には静岡式の製茶施設も導入された。さらに、1913年には井邑市に2700坪の茶園が作られ、大阪向けの輸出も始まる。その後も緑茶の消費量も増加したため、1939年、朝鮮総督府林業試験場の提案を受けて、京城化学工業(関西ペイントが1938年に設立)が宝城郡に27万坪の大規模茶園を造成。これが、茶所・宝城の原点となった。

 1945年の解放後、


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