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2010/06/04

<随筆>◇"首尓站"とはどこなの?◇ 産経新聞 黒田勝弘 ソウル支局長

 ソウルという地名は韓国(朝鮮)固有の名前なため漢字で書けない。昔(李朝時代)は漢城とか漢陽などと漢字名だったし、日本統治時代も京城という漢字を使った。韓国では解放・独立後、漢字名をやめて「ソウル」にしたが、ハングル使用が大勢となったためとくに表記に不便はなかった。

 ただ、中国研究者や観光業者などは、中国(台湾をふくむ)向けには依然、「漢城」と書き、名刺の住所などにもそう印刷していた。中国や台湾の政府やマスコミなども「漢城(中国語発音ではハンチェン?)」と表記してきた。

 ところがその後、韓国側が官民挙げて「ソウル」にしてほしいと強く要請し、先年、中国語で音が似ている漢字を使って「首尓」となった。「尓」は「爾」の略字である。「ハルビン」の「ル」にあたる音だ。

 ソウルの漢字表記が「首尓」になったころ、「人民日報」のソウル特派員だったか、中国人記者が面白いことをいってくれた。中国で地名や人名を漢字の意味とは関係なしに、発音だけを生かして漢字表記するのは辺境民族についてであって、中華文明圏の伝統的としては一段と格落ちになるというのだ。

 いささか皮肉な話だったが、くだんの中国人記者にいわせると、その意味では今なお漢字を大事にし、首都を「東京」といっている「日本はかわいい」というのだった。

 ソウルを「首尓」とした韓国は、ある意味では自ら中華文明圏の優等生から脱したことになる。この”中国離れ”は自分が選択したわけだから、十九世紀の日清戦争の結果による歴史的な”中国離れ”より貴重かも?

 ところが、である、この「首尓」が空港バスの行き先や街の表記、観光パンフなどにも登場していて、日本人客には不便このうえない。漢字が復活したのはいいが、すべて中国式なのだ。そのため「駅」も中国式に「站」となり、行き先表示には「首尓站」「清涼里站」…などと書いてある。

 「站」では日本人にはわからない。「駅」も「站」も中国語にあって同じような意味だから、日本人客に配慮して「駅」を使ってほしかったですねえ。そもそも今、存在するのは「ソウルヨク(駅)」であって決して「ソウルチャム(站)」ではないのだから。

 現在の漢字表記は完全に中国語である。日本人客を念頭にはおいていない。中国語漢字で日本人もわかるだろうというのかしら。しかし観光客ではまだ日本人の方が多い。日本人からすれば、日本語漢字で中国人にもわかってもらえばいいのに、と思うのだが。

 「首尓」で”中国離れ”をしたのはいいとして、今度は略字をはじめ中国語漢字が幅を利かしているのだ。あらたな中国傾斜である。その結果、日本人客や日本語漢字の無視、軽視という”日本離れ”が気になる。漢字観が問題ということになるが、韓国も日本と中国の間にはさまってつらい?


  くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者を経て、現在、産経新聞ソウル支局長。