ここから本文です

2014/08/29

<随筆>◇夏がくれば思い出す、あのころのこと◇ 呉 文子さん

 あれから69回目の夏が過ぎ去ろうとしている。1945年の春、私たち家族は、姫路から播但線でいくつか北に向かった香呂という鄙びた山村にしばらく疎開していた。小学2年生になったばかりの私は、その日も甘い香りが漂うレンゲ畑で、花輪や花冠などつくって無心に遊んでいた。突然母のとてつもない叫び声がしたので振り向くと、「文子!文子!」と息を弾ませながら走ってきた母は、無言のまま私の手を力一杯引っ張って夢中で走った。空襲警報のサイレンがうなり声をあげているなか、人々がわめきながら行き交っていた。ただならぬ様子に、母の手から離れまいとしっかりと掴まって必死で走って逃げた。

 翌日のこと、駅近くの線路に止まっていた客車には、血だらけになって死んでいる人、瀕死状態の人たちの呻き声で地獄のさまだった。間もなく私たちは沿線のもっと奥の寺に疎開した。寺の名前は忘れてしまったが、毎朝読経が流れていたこと、コウリャンをペッタンコにしたものが代用食で、ひもじい思いをしたことだけは鮮明に記憶している。程なくして岡山での生活に戻ったのだが、6月29日の未明、B29の襲撃による悪夢のような岡山大空襲に遭う。焼夷弾が花火のように降り注ぐなか、私たちは着の身着のままで逃げまどった。

 父は何も持たないまま逃げてきたことに気づき、毛布を取りに家に戻った。その間、真っ赤に燃える夜空の下で爆弾の炸裂する地響きに脅かされ、ぶるぶる震えながら母や弟たちと身を寄せ合って父を待っていたときの怖かったこと。

 戻る途中、父の目前に焼夷弾の破片が落ちたこと、一歩前を歩いていたら死んでいただろうと父から聞かされたときには、無事でよかったとどんなに安堵したことか。一瞬のうちに火の海と化してしまった中を逃げ惑ったその夜の怖かったことは生涯忘れることができない。

 市街地中心部の約8割が焼き尽くされ、岡山のシンボルでもあった老舗百貨店「天満屋」も丸焼けになり、鉄骨だけが残った無残な姿が爆撃の凄まじさを表していた。私たちの家族は奇跡的にも全員無事だったが、岡山駅周辺には戦災孤児がたむろし、闇市が立って戦後の混乱期を迎えた。

 その翌年だったか翌々年だったか定かではないが、8月15日に日本三名園の一つと称賛される岡山の後楽園で祝賀行事があった。チマ・チョゴリで着飾ったオモニやアボジたちが、チャンゴを叩きながら歌ったり踊ったりして光復節を祝っていた。祝い酒に酔ったせいか人前で踊ることなど苦手な父も、みんなの輪に混じって手を上げ肩を揺すっていた。よほど嬉しかったのだろう。あの日公園で車座になって食べたお弁当、特に卵焼きの美味しかったこと!

 この季節になると、あの頃の光景が1コマ1コマ再現フィルムのように鮮明に蘇って来て、万感胸に迫ってくる。


  オ・ムンジャ 在日2世。同人誌「鳳仙花」創刊(1991年~2005年まで代表)。在日女性文学誌「地に舟をこげ」編集委員(2006~2012終刊)。現在「異文化を楽しむ会」代表。