韓国の5大王宮の一つ徳寿宮は、元々は朝鮮時代の王族で成宗の兄、月山大君の邸宅だったが、豊臣秀吉による文禄の役(1592年)に際して義州に避難していた宣祖が、荒廃した景福宮(ソウルの宮殿は秀吉軍の入城前に朝鮮の民衆によって焼き打ちにあっていた)に代わる臨時の王宮とし、慶運宮と命名した。
その後、景福宮の離宮であった昌徳宮が1615年に再建され、王が昌徳宮に移ると、慶運宮は忘れられた存在になっていたが、1896年の閔妃暗殺事件といわゆる俄館播遷(高宗がロシア公使館に逃れて政務を執った非常事態)を機に、1897年以降、王の在所となり、大韓帝国の発足後は皇帝の住居となった。
ちなみに、現在の徳寿宮という名になったのは、大韓帝国最後の皇帝、純宗の時代である。徳寿宮は、韓国現代史においては、第二次大戦後の米軍政時代、米ソ合同委員会が置かれていたことでも知られている。
1945年12月27日、米・英・ソ3国の外相が戦後処理を協議するためにモスクワで会談。いわゆるモスクワ協定がまとめられ、翌日、3国の首都で同時に発表された。
このうち、朝鮮に関しては、①朝鮮を独立国として再建することを前提として、民主主義臨時朝鮮政府を樹立する②同政府の樹立を支援し、必要な諸方策を作成するため、米ソ両軍の代表による共同委員会(米ソ共同委員会)を設置する③5年間を限度として中国を含め4カ国による信託統治を行う④在朝鮮米ソ両軍の代表者会議を2週間以内に招集する、ということが定められた。
徳寿宮におかれていたのは、この②で規定された米ソ共同委員会である。
騒然とした世情の中で、徳寿宮の米ソ共同委員会には連日、信託統治反対を訴える嘆願のはがきが大量に送られ、その一部は市場に流出して、筆者のコレクションにも収まった。
信託統治反対の嘆願はがきには、日本時代のはがきの額面を生かして、差額分は料金収納印を押して利用したケースが少なくない。逆に言うと、日本時代の印面を解放後に活用したはがきの多くは徳寿宮の米ソ共同委員会宛のものだから、その意味でも、韓国郵便史に興味のある人間にとっては、徳寿宮はなじみのある名前だ。
現在の徳寿宮では、正門にあたる大漢門の前で、王宮を守っていた兵士たちの勤務交代式を再現した“王宮守門将交代儀式”が行われていることでも知られているが、大漢門から約800㍍続く石垣の貞洞通り(通称=石垣道)は、銀杏の黄葉の名所として知られている。
今からほぼ半世紀前の1961年12月1日に発行されたエアメール用の200ファン切手(ちなみに、現行の大韓民国ウォンは、1962年6月、10ファン=1ウォンのレートで誕生した)には、徳寿宮の石垣の前を歩くチマチョゴリ姿の母子が描かれている。
1953年に休戦となった韓国戦争時代の写真には、チマチョゴリ姿で避難する女性がしばしば映っているし、日本でも1960年代初頭には、和服姿で街を歩く女性がそれなりにいたから、この時代くらいまでは、ソウルの町中でこうした親子を見ることも珍しくなかったのかもしれない。
背景の門は正門の大漢門ではなく石榴門で、エアメール用の切手なので、背景には飛行機も飛んでいる。ただし、実際にこの角度で飛んでいる飛行機を見ることができたのかどうかは、僕自身は確認できていない。