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2001/01/26

<在日社会>不屈の芸人・マルセ太郎を悼む

 在日2世のボードビリアン・マルセ太郎が、22日午後に亡くなった。がんを発病後、転移による入退院を繰り返しながらも、「スクリーンのない映画館」シリーズなど最後まで公演を続け、役者人生をまっとうした。葬儀は本人の希望により親族だけの密葬となる。同じ大阪・猪飼野出身で在日2世の作家、梁石日さんに追悼文を寄せてもらった。

最後の命燃焼した芸の迫力に圧倒

 今年の一月六、七日に私は崔洋一・映画監督と脚本家の鄭義信、そして松竹映画会社の関係者二人と一緒に、私の原作「血と骨」のロケハンのため大阪に行った。そして昔、私が生まれ育った東成や生野を見て回ったのだが、そのとき猪飼野東二丁目の火葬場の近くに住んでいた私の家を見ることになった。
 戦前から建っている火葬場は朽ち果て、私の住んでいた六軒長屋のうち4軒が廃屋になっていて、その荒れ果てた光景に私たち一行は呆然とした。

 じつはマルセ太郎も高校を卒業するまで、この火葬場のすぐ近く、私の家と目と鼻の先に住んでいたのである。私がこの長屋に住みはじめた頃、三歳年上のマルセ太郎はすでに上京していて会うことはなかったが、鄭仁という私の親友とマルセ太郎は親友だったことをあとで知った。

 人生の不思議だが、めぐりめぐって、マルセ太郎は芸能界の底辺を這いずり、私も人生の行き場を失って大阪を出奔したあと東北地方を旅し、東京へ来て十年間タクシー運転手を勤めてもの書きになった。そしてマルセ太郎が「スクリーンのない映画館」で注目を浴びだした頃と、私が小説を書きはじめた頃と時期を同じくしていた。その頃から友人の鄭仁にマルセ太郎と一度会うようすすめられ、渋谷のジャン・ジャンに出演しているマルセ太郎を見に行こうと思いながら十数年が過ぎたのだった。

 そしてある日、エッセイストの朴慶南と落ち合って所沢の航空公園にある文化会館でマルセ太郎の演技をはじめて観賞したのである。
 すでに癌に犯されていたマルセ太郎は、しかし凄じいばかりの迫力を私を圧倒した。人間は自らの命を最後の最後まで燃焼し続けられるという証しでもあった。芸人の魂がこめられているあの異様な風貌は、他の追随を許さない厳しさに満ちていた。公演が終わったあと、マルセ太郎と私はファミリーレストランでビールを飲みながら語り合ってみると、なんとマルセ太郎の友人の多くが私の友人でもあった。そしてマルセ太郎と私は、まるで幼な馴染みでもあるかのような語らいをしていた。それは時間の枠を飛び超えた、じつに奇妙な夜であった。

 その後、マルセ太郎からいく度か公演の招待を受けながら、忙しさにかまけて観に行くことができなかった。死を目前にしていたマルセ太郎の心情をくみ取れなかったことを、いまさらのように悔やんでいる。見事な生きざまであったと心から哀悼の意を表したい。

「スクリーンのない映画館」が好評

 
 マルセ太郎(まるせ・たろう)さんは、韓国名・金キュンボン、日本名・金原正周(きんばら・まさのり)。1933年12月、大阪・生野生まれ。高校卒業後、俳優を志して上京。ボードビリアンとしてデビューし、パントマイムのマルセル・マルソーにちなんで芸名をつけた。サルの形態模写で人気者となり、84年からは、「泥の河」「生きる」などの名作映画を再現する一人芝居「スクリーンのない映画館」を発表し、評判となった。大阪の猪飼野(在日韓国・朝鮮人の密集地)で育ったことを芸の原点とし、99年には自らの家族をテーマにした「イカイノ物語」を作・演出して好評を博した。94年末に肝臓がんを発病、闘病生活を繰り広げながら、舞台に立っていた。著書に「芸人魂」など。自宅は東京都狛江市元和泉2-25-24。

4月に追悼公演

 マルセ太郎ファンクラブによる追悼の夕べが、2月に都内で開かれる予定。また4月に東京で再演を予定していた「イカイノ物語」は、マルセ太郎の出演部分に代役を立て、マルセ太郎追悼公演として行われる。詳細はマルセ日和03・3378・6584。