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2003/08/15

<在日社会>40代在日中堅世代座談会

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    コ・ヨンウィ 1957年、大阪生まれ。在日2世。東京大学卒業。弁護士。日弁連人権擁護委員会委員。在日コリアン弁護士協会共同代表。

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    キム・ピョ 1956年、東京生まれ。在日2世。80年、東京大学医学部卒業。東大病院勤務後、89年、米国のメイヨー医科大学院卒。東大助手などを経て、96年に独協医科大学脳神経外科助教授。99年から主任教授。熱心なカトリック信者。

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    パク・ジョアン・スックチャ 1958年、東京生まれ。在日2世。ジョアンはクリスチャン名。米国ペンシルベニア大学卒業。シカゴ大学MBA(経営学修士)取得。ワーク・ライフ・コンサルタント。アパショナータ代表。

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    ユン・ヤンジャ 1958年、神奈川県生まれ。在日3世。和光大学経済学部卒業。女性誌記者を経て、91年に広告・出版の企画会社「ZOO・PLANNING」を設立。書籍・単行本から各種PR誌などの制作を行う。

 解放から58年を迎えた今日、在日社会も大きな変貌を遂げた。経済的な基盤も構築し、日本社会への進出も活発化している。世代交代も進み、在日1世は2~3%になった。いま在日社会の中核を占めているのは、日本生まれの2、3世である。社会の中核を成す40代の在日2、3世4人に、自らの経験、在日社会の今後などについて語り合ってもらった。

 【出席者】  (順不同)

  弁護士              高 英毅氏(写真・1番目)
  独協医科大学教授       金 彪氏(写真・2番目)
  ワークライフコンサルタント  朴淑子さん(写真・3番目)
  出版・企画会社代表      尹 陽子さん(写真・4番目)

  司会:金時文・本紙編集局長


 【司会】 解放から58年を迎えました。いま在日社会はどういう転換期を迎えているのか、社会の中堅で活動する40代の在日に話を聞きたいと思い、きょうの座談会を企画しました。まず自己紹介からお願いします。

 【高】 大阪で在日2世として1957年に生まれました。今までの人生を振り返って見ますと、本国思考から在日思考という言葉が当てはまります。
 小学校は民族学校に通い、中学・高校、そして大学は日本の学校に進みました。それでもやはり、自分の生きる場、活動する場は日本ではないという感覚がありました。中学・高校までは本国に渡って、祖国統一に寄与できたらと思っていました。日本は仮住まいと考えていました。
 それが大学に入学して東京に出てきた時に劇的に変わりました。東京に出てきて初めて、大阪にどれだけ愛着をもっているかがわかったのです。自分が生まれ育った土地に差別が残っているのであれば、それを放って向こうにいくのはちょっと筋違いではないかと思いました。そこで在日思考に変わったんです。そうなると(日本で)食べていかなければならない。しかし当時は、医者以外は(在日は)国立大学を卒業しても就職先がありませんでした。
 私は大学に進むときに父親に黙って文系に進んで大変しかられましたが、その理由が就職時期が間近になった時点で初めてわかりました。まわりの人間は就職が決まっていくのに私のところだけ話がないのです。ちょうどそのころに、在日2世の金敬得先生が弁護士第1号になりました。その話を聞いて、私も弁護士の道に進んでみようと思ったわけです。
 弁護士になってみると日常的には企業関係だとか、在日とは関係のない仕事が圧倒的に多いです。しかし、日本弁護士連合会(日弁連)を通じて在日の差別や政治的諸権利の問題にも取り組んでいます。

 【朴】 私は両親が離婚して、兄弟はそれぞれ分かれて引き取られました。私は父に引き取られました。仕事の面では母の方が成功していました。母は一世で差別を受けてきたものですから、日本の大学を卒業しても就職がないということで、父が亡くなった後、子どもたちは英語さえ話せればなんとかなると考え、私と姉を米国に留学させました。一度戻って日本の高校を卒業してから、大学はまた米国に行きました。
 日本では日本名をつかっていたのでそんなに差別を受けたということは感じませんでした。米国ではよく、どこからきたのかと聞かれます。「日本から来たけど韓国人」と答えることで、初めて韓国人であることを意識するようになりました。また、米国も差別があります。だけど、アジア人ということで差別をするのであって、韓国人への差別ではありません。
 その後、大学院に進み、米国で就職して2年半ほど勤め、その後日本に戻ってきました。会社を辞めた後、韓国に語学留学に行きましたが、韓国でも差別を受けました。日本では韓国人として差別され、アメリカにいけばアジア人として差別され、韓国でも差別される。私はどこの国にいっても外国人だと悟りました。
 特に韓国人は女ということで差別し、出身地で差別する。私の両親が済州島ですが、それがあまりよくなかったみたいですね。すごくショックでした。そういうこともあって、私はどこの国でも生きていけるようになろうと思いました。でも、やはり親の祖国ですし、韓国もいいところが沢山あります。良い悪いも含めて韓国人ということを受け入れながら、自分のスタンスを考えていきたいと思っています。

 【金】 自分の育ったところは、あまり在日が多いところではありませんでした。高校までは通称名をつかっていましたが、友人には話したりしていました。高校時代、日本は高度経済成長を遂げ、60年代から70年代に新幹線や高速道路が出来て、日本の工業製品も国際市場で評価されていました。
 同時に韓国は経済的大発展の時代を迎えていました。開発独裁をむかえて、すごく希望がありました。いろんなことが出来そうだという期待感がありました。財閥企業はまだ大きくなってはいなかったですが、現代や起亜の自動車産業など期待がありました。そんな時代を生きました。
 理数系が開発独裁を支えているし、数理経済がはやりの時代で、韓国に行ったら何か出来そうだとの気持ちもありました。韓国士官学校に行こうなどと夢想したこともあります。
 父は私をビジネスマンにしたいと考えていました。大学も経済学部に行く予定でしたが、就職の問題が心配でした。僕らの育った時代は在日は就職が難しい時代でした。父は米国でMBAを取って多国籍企業に勤めて、極東担当になれと言いました。高校生のときにその父が肺ガンで亡くなりました。ガンが転移して精神も変調を来たしたのを見て、人生観が変わりました。人間の脳を研究しようと決意。そして医者の道を歩み、現在に至っています。

 【尹】 私は在日3世です。父も日本で生まれました。学校は小学校だけ日本の学校にいって、その後、中学・高校は民族学校に行き、それから日本の大学にいきました。民族学校の教育はアレルギーが出るくらい嫌でした。寮生活をしていたのですが、在日とかかわって仕事をしたくないと思っていました。
 父には資格を得るために歯学部に行けと言われましたが、全部落ちてしまったので文系を受けました。大学4年の時に、「女性自身」の編集部でアルバイトをしていましたが、そこで記者にならないかと誘われました。芸能関係に配属されたのですが、芸能関係ではプロダクションとか韓国名を嫌がる人もいるので、日本名を使った方が良いとアドバイスを受けました。そこで10年くらい仕事をして、その後書籍を作る仕事をしたいと思い、「女性自身」をやめて今の会社を立ち上げました。
 以来、ずっと普通に書店に並ぶ書籍を作っています。2世の父は電気通信大学を出て日本の官庁にいきたかったようですが、それは望むべくもなく、大学卒業してから密造酒を作っていました。それもあって、「女性も職業を持つほうがいい」といっていました。父は「女性も仕事をもって在日や女ということにとらわれず生きてほしい」と思う反面、「在日同士で結婚して普通に生きてほしい」という葛藤があったと思います。


 【司会】 日本企業の就職の壁はやはり大きな問題ですね。昔と比べて最近は大企業で勤める人、本名で働いている人も増えているようですが。しかし、入って昇進できるかという問題は別かもしれませんね。私の知人で大出版社に勤めていて、昇進に制限があって退社したという人がいました。就職・昇進はいまも大きな問題のようです。
 ところで在日には多くのタイプがあると思います。祖国と私たちは一体だとして韓国の民主化運動に参画しようとする人もいれば、自分の力だけで生きていくという、いろんなタイプがあります。帰化して在日から遠ざかった人もいます。その辺はいかがでしょうか。そして在日はどこまで来たのでしょうか。

 【尹】 大学生の時に朝鮮学校出身者の集まりがありました。一つ上の先輩で建築を学んでいる人がいましたが、勉強しても、日本人のため、または、日本の社会のためになってしまうと話す人がいました。私は驚きましたが、そういう気持ちの人がいたのも事実です。
 私は全然違いました。1人の人間として平凡な人生を送りたいと思ってました。しかし、それは在日にとっては難しいことでした。58年を振り返って、いま在日は平凡に生きる権利を手に入れかけているのかなと思います。職業選択の自由のために努力を払われた方がたくさんいると思いますが、そういう平凡に生きる権利を獲得するためだったと思います。

 【朴】 私は外資系企業に勤務し、アジア地域を担当していました。相手にする人も当然アジア人でしたので、差別とかは関係ありませんでした。それよりも企業で働く人たちの長労働時間の問題、私生活とのバランスの問題が米国で社会問題となり、ワークライフバランス(WLB)を考える企業が出てきました。日本や韓国も長時間労働の国なので、そのWLBの考えをアジアでも広めようと、日本に戻ってきて会社を立ち上げました。
 関係を持つ企業が日本のトラディショナルな企業ということもあってか、差別は経験していないです。しかし先日、母の友人の息子が地方で本名を使いはじめたら、いじめられて不登校になったと聞きました。都会はともかく地方ではまだまだ民族差別があるようです。民族差別を克服し、国際的に活躍し、それを社会に還元するのも、在日の役割ではと考えています。

 【金】 韓国・北朝鮮にずっと関心を持って生きてきました。少年時代に韓国の経済成長があり、最近ではIMF時代がありましたが、その中で韓国社会の様々な側面を見てきました。財閥・学閥・閨閥支配の嫌な面や、死んだ人間の法事のために人生が縛られる儒教のネガティブな面は痛感させられます。
 私の両親の故郷は咸鏡道ですが、北朝鮮への視点も変わりました。子どものころは北へのユートピア的な見方を持っていたし、それは日本の知識人にもそういう面がありましたが、それが大きく変わりました。どちらにしても共通しているのは、民族主義的な考えが変化してきたことです。

 【高】 私の学生時代、在日の有識者の傾向は、生活の場である日本での権利獲得はさほど関心はなく、日本という国を積極的に変えていこうとは考えませんでした。祖国統一に寄与するためにどういうことが出来るかと悩み韓国に渡った方もいます。留学して政治犯として拘束された青年もいました。私も民族学校に行かされたということもあって、政治にとても関心を持っていました。
 ついこの前まで、在日社会全体が本国思考が主流であったと思います。日本の企業に就職すること自体とんでもない。日本の法律を勉強することもとんでもないという人がいました。
 それが在日も日本社会に住み続けるという考えが強くなってから、やっと就職の問題も考えていかなければならないというようになりました。本名を名乗りながら日本の企業に勤める人も出てきました。その間、運動の担い手の努力は大変なものだったと思います。しかし、在日の知識人はいまでも本国志向が強いという気がします。


 【司会】 74年に文世光事件という在日2世の青年が、朴正熙大統領の暗殺を企て、陸英修女史を殺害した事件がありました。軍人出身の朴大統領を暗殺することで、統一が早まると考えたようです。韓半島が2つに分かれているために、純粋な在日青年が政治的に利用されることが、60年代、70年代は数多くありました。それが80年代以降ですか、政治色が薄くなり、本国志向から在日志向に変わってきましたね。参政権運動が出てきたのも、そういう背景があると思います。いま在日の課題は何でしょうか。

 【金】 本国志向から在日志向への変化には、集団志向から個人志向という側面もありますね。それまでは民族学校とか、在日コミュニティとかの縛りがあった。それが個人的な生き方が問われるようになった。

 【高】 在日は諸外国には珍しい特別永住資格があり、法的地位はしっかりしています。この資格を持つ在日は、退去強制はできません。社会保障も若い世代にはほとんど認められています。指紋押捺もなくなりました。
 経済生活のレベルでは、まだまだ制限はあるにしても相応な会社に就職できるようになった。しかし、唯一政治生活のレベルでの権利獲得はゼロに近い状況です。これが大きな問題なのに、在日全体の関心が少ないのに驚きます。

 【金】 高先生や私は、日本の権威主義的な世界で生きてきたわけです。そこには、一つの壁を破ることがハードルとしてありました。国立大学で内科の教授をしている在日の先輩がいますが、「いざハードルを破ってみたら意外に小さかった」と話していたのが印象に残っています。若い世代に言いたいのは、日本の医科大学で在日も教授になれるということです。

 【高】 在日の知識人や発言力のある方は、在日の就職や日本のステイタスにそんなに関心があったわけではありません。日本の一部上場企業に行く人間というのは視野になかったのです。
 在日社会のリーダーは、在日が日本社会で生きていくための環境作りに対して大変無頓着でした。それよりも、理念的な「本国」とか、「祖国統一」が第一にありました。日々の生活も、自己実現も個人の努力にまかせられていました。在日社会、民族団体がバックアップするということがなかったんですね。

 【金】 私は栃木県に住んでいますが、地元の政界に知人がいて、頼まれて会合に出席することがあります。自治体レベルならすぐに変えられそうな政治課題もあるのに、参政権がないので発言できないのは本当に残念です。これからは在日、日本人関係なく、地域のコミュニティを良くするために発言していかないといけないでしょう。

 【尹】 税金を払っているのに地方参政権さえないことは、本当におかしいですね。以前、櫻井よしこさんが、在日に選挙権を与えるべきでないと発言したことがあります。韓国に参政権があるので、2つの国に参政権を持つのは前代未聞との論理です。韓国で在日は投票権をもっていません。日本のマスコミの知識のなさにも驚きます。

 【高】 選挙人名簿は居住者名簿で作られるので、韓国での住民登録が認められていない在日に韓国の選挙権はありません。

 【金】 日本のメディアは閉鎖的で知的レベルが低いと感じることが多いですね。日本語で書かれた内容に対して世界のメディアからフィードバックされる機会が少ないせいかもしれません。

 【朴】 投票権がないと政治に関心を持つのも難しいですね。日本の人にはよく、選挙権がないのはかわいそうと言われます。それと3世は無理に韓国籍でいる必要はないと思います。市民権も選挙権もないのはおかしい。私は生まれてきた時の韓国籍を持ち続けたいと考えていますが、子どもたち世代である3世以降は、日本籍でいいのではないかと考えています。もちろん言葉や文化、歴史を教えるのは大切だと思いますが。

 【高】 日本でも韓国でも相互主義的に定住外国人に地方参政権を与える話がありましたが、どちらの国も法案は通りませんでした。しかし日本で通らなかったのは、韓国で法案が通らなかったからでなく、自民党内保守派が巻き返しに出たからです。彼らは日本国籍取得法案を出してきました。しかも本名で日本国籍を与えようという法案です。これに対して運動の側が逆にあわててしまったのです。地方参政権はほしいが、日本国籍を取ると在日がなくなるとの危機意識があり、日本国籍はいらないとの話になってしまいました。
 在日のオピニオンリーダーで、日本国籍取得法案をきちんと評価し、かつ反論できた人はいなかったのです。私を含めた在日コリアンの弁護士有志30名弱がその評価と問題点を指摘する声明を出しましたが、在日の団体が法案をきちんと検討して在日の制度的地位について協議する場を設定していたなら、その後の展開は違ったはずなのにと思います。惜しいチャンスを逃しました。

 【尹】 在日が団体交渉をする力をきちんと持ってれいば変わったのですね。

 【高】 5、6世の時代になっても居住国の国籍を与えないのは日本ぐらいです。そういう状況に異議申し立てをしない在日社会も問題です。帰化というのは個別に日本政府が裁量で国籍を与える制度です。在日は一方的に国籍を喪失させられながら、日本の統治に全面的に服しています。統治を受けている者は統治に意思を反映する権利が与えられねばならないというのが、民主主義の理念です。だから在日には日本の統治に意思を反映する参政権が不可欠です。そして国政参政権を得るための現実的選択肢は、国民国家の下では権利としての国籍取得しかありません。

 【金】 逆説的な言い方ですが、私たちに日本国籍を与えることで、日本が時代遅れで国民国家の仲間入りをするのかもしれませんね。国籍を取って政治的発言を持って社会を良くしたいとの思いはありますが、日本の完全な被支配の立場になってしまうという躊躇感はあります。その点は高先生いかがですか?

 【高】 逆に法律家の立場からいえば、現在が、一方的に支配されているのです。政治的権利がないわけですから。「日本国籍を取ると汚れる」という方がいらっしゃいますが、日本の政治に関与する権利がなく、一方的に日本の統治を受けるだけの現状のほうが、問題だと思います。今度日本にも陪審員制度に近いものが導入されますが、日本国民でないとそれにもなれない。それでいいのでしょうか。

 【朴】 裁判官になりたかったらなれるし、公務員になりたかったらなれる、そういう権利を在日の子どもたちに残しておきたいと念願します。

 【金】 日本社会は均質社会で来ましたね。人と違うことを恐れて全員が同じ方向に向きを変えていく危険な風土が根強くあります。マイノリティがきちんと生きていける社会にならないといけない。そういう社会にするためにも、政治的権利が必要ですね。ただ自分がコリアンであるという存在証明を残した上で日本国籍取得なら取得の道を歩みたいと思います。

 【高】 私の見解は多少誤解されています。私の考えは、自らを支配する者は、自ら自身であるという民主主義の理念の実現です。そのための現実的選択肢は日本国籍の取得しかない。しかし、その国籍取得の方法や条件も日本が勝手に決めることは許されない。法案決定の場には在日も加えて交渉のテーブルをつくるべきです。

 【尹】 在日の歴史的経緯を見ると、どうしても日本国籍を取ることに抵抗が出てきてしまいます。

 【朴】 米国のように何系何人といえる風土をつくるべきですね。

 【金】 韓国と日本の二重国籍は無理なのですか。

 【高】 二重国籍を認めようという意見も有識者の中から出てきています。

 【金】 残りの人生を考えた場合、韓国籍を守ることと、日本の国政に参加して変革することとを考えたら、やはり後者になるのかもしれません。

 【高】 集団としての在日を考えた場合、自立していない集団は対等なパートナーとして扱われません。政治的権利のない在日集団が、韓国にも他の国にも相手にされるかははなはだ疑問です。

 【金】 その国の国籍を取って影響力をもったほうが認められる可能性は高いですね。在日が個人として認められる人はいても集団として認められないのは、そこに原因があると思います。日本国籍を取ったら在日の存在がなくなるという人もいますが、それこそ在日社会が試されていると思います。


 【司会】 政治的権利がないというのは奴隷のような存在ですね。転換期の時代に、在日は何をなせばいいのか、最後に提言をお願いします。

 【金】 ミクロ的なレベルでいうと、まず韓国語を覚えることだと思います。そうすれば自己の座標軸もはっきりするし、韓国人とコミュニケーションも出来る。
 そしてマスコミを含めてあまりにも見識の低い、鎖国的な日本社会の状況、これに提言できる団体、個人が必要と思います。そのためにもしっかりした受け皿となる在日組織が必要です。それはまた日本社会にとっても必要ではないかと思います。私たちが発言することで、日本社会もよくなっていきます。

 【朴】 日本社会にWLB(ワーク・ライフ・バランス)という働きやすい環境づくりを提起しているのが在日韓国人である私なのも、考えたら面白い話だと思います。朴という女性がWLBの仕事をしていることを通して在日のイメージを高めることにつながればと考えてやっています。

 【尹】 在日が個々人のプライドをきちんと作ることが「在日力」につながると思います。

 【高】 在日58年を振り返った時、「本国志向」から「在日志向」になったと述べましたが、課題として残っているのは「在日の自立」です。政治的には日本に従属し、精神的には本国に従属していた。その状態がいまも続いている。
 政治的権利の獲得、日本国籍取得をした後、在日としてのアイデンティティーの危機を持ったときに、それを乗り越えるための教育、これらは個々人の力では達成できません。いまこそ自立のための在日の団結が必要な時期です。私たちの地位について日本政府と交渉の場を早く作り、政治的権利をつくる話し合いをすべきです。

 【金】 新しい組織ですね。既存の組織でない新しい時代にあう組織を作らないといけませんね。

 【高】 既存の組織も加えた在日のゆるやかな連帯の場が必要です。


 【司】会 オリーブの木(96年に結成されたイタリアの中道左派連合)のようなものですか?

 【金】 そうですね。在日ですから「ムグンファ(むくげ)の木」のような名前がいいかもしれません。大衆的でだれも反対できない集まりが必要です。最終的には政党が必要かもしれません。50万人の党員がいる政党ができたら一大勢力です。

 【高】 国会に代表を出すようにならないとだめです。それも日本政府と交渉できる人材が必要です。それでこそ在日社会が変わっていくと思います。

 【尹】 すごく勇気付けられます。在日女性の候補者も出てきてほしい。

 【朴】 そんな集まりが出来たらいいです。21世紀を担う在日の子どもたちのために、一歩一歩進んでいきたいですね。

 【司会】 むくげは韓国の国花です。北系も含めて大同団結するには「鳳仙花の木」と命名するのがいいかもしれませんね。本日はどうもありがとうございました