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2005/12/16

<在日社会>在日文人の元老としての奥行きと味わい

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                 月下情人 薫園申潤福画

 在日文人の元老、崔碩義氏の著作集「黄色い蟹 崔碩義作品集」が好評だ。崔さんの集大成ともいえる同書について、韓国現代史研究者の金一男さんに文章を寄せてもらった。

 1988年から2002年までの著者の作品集。分野はエッセイ、評論、小説、譚詩とはばひろく、数少ない在日文人の元老としての奥行きと味わいを示している。長い在日朝鮮人運動の実践と民族文化研究にもとづく該博な知識が随所に光る。

 エッセイ「乳色の雲」は、金素雲の同名の訳詩集に関するもの。少年時代に直接手にふれた実感をこめて、たとえば詩人趙明熙などの数奇な運命が紹介されている。

 「還郷女の悲劇」は、高麗と朝鮮の時代に受けた侵略での女性たちの受難をあつかっている。淡々とした語り口がかえって心を痛ませる。同じくエッセイ「詩人小熊秀雄の『長長秋夜』」は、小熊と、槙村浩、宮沢賢治の朝鮮にかかわる詩を紹介している。小熊の詩の末尾、「すべての朝鮮が泣いている」は、小熊の心のやさしさと共に今もわれわれの胸を打つ。

 「ハンセン病の歌人、兪順凡」は紹介されている短歌「分断の母国の事は諦めん諦めんとしてなおも苛立つ」は、われわれ共通の心情を代弁している。

 評論「朝鮮のエロスの系譜」は、近年に著者が踏み込んだ新しい分野。朝鮮における性と愛とそして恨(ハン)を赤裸々に語り、また植民地時代のいわゆる「新女性」たちの運命を紹介している。すぐれた労作であり、楽しく読ませる。

 読み方はいろいろとあるであろうが、民族と自分自身にたいする等身大の自己了解の試みと考えたい。自己と民族について、自己卑下とともに理想化もまた、過去のものであるべきだ。歴史の過去と未来を正しく見すえるために、あるがままの生の原点として著者が行き着いたメッセージである。

 譚詩「夢幻泡影」(1988年作品)は、夢の中で南北朝鮮統一国家の大統領になった崔固執氏が存分にその夢を語る物語風の詩だが、読後にむしろ悲哀がつのる。

 エッセイ「蟷螂の寓話」(95年作品)と小説「身捨つるほどの祖国はありや」(92年作品)は、ともに北朝鮮の独裁体制にたいする批判を主題としている。

 在日朝鮮人運動が本来の主体性を失って御用化する中で、多くの人々が排除された。著者もその一人である。在日朝鮮人運動にたずさわった人であれば、92年の段階でもなお、小説「身捨つるほどの祖国はありや」のような文学を公表することが、どれほどの勇気と信念とを必要としていたが、理解できるはずである。

 孤立の不安や身の危険を覚悟せずには踏み切れないことであったと思われる。それほどに、在日朝鮮人の望郷幻想に乗じた偶像崇拝の影響は、長く深刻であった。かなしい事実である。

 「身捨つるほどの…」の文体には、どこか飄逸なところがある。けれども、飄逸さの本質が哀しみにあることを知ってさえいれば、それは少しも不思議ではない。