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2005/08/26

<在日社会>韓日で活躍・「野球こそ我が人生」

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    キム・ソングン 1942年京都生まれ。在日2世。京都府桂高校卒業。日本の社会人を経て韓国社会人野球で活躍。韓国プロ野球6球団のコーチ、監督を経て現在千葉ロッテマリーンズのコーチ。

 千葉ロッテマリーンズのコーディネーターとしてコーチングスタッフに今年から加わった金星根氏は、韓国で長年プロ野球の監督を務めた人物で、京都出身の在日2世でもある。金さんに韓日両国での生き様を聞いた。

 温和な顔に鋭い眼光が印象的な金星根氏。6人兄弟の下から2番目だ。中学1年生のときに交通事故で父を亡くしている。

 「とても貧しい生活で、兄や姉が働いて家計を支えていた。みな働くのに必死だったので(小さい私は)放っておかれたが、その分自立心を養うことができた」

 サウスポーとして活躍していた桂高校野球部3年生のとき、在日同胞学生野球団の一員として初めて祖国に渡る。1959年のことだ。韓国の野球チームと対戦して13勝2敗1分けの好成績をあげる。

 卒業後、日本の社会人野球入りを目指すが、当時は在日韓国人を採用する大手企業はなかった。

 「高校3年生までは在日であることを隠していたが、学生野球で韓国に行ってから祖国に誇りを持った。高校を卒業して入社試験を受けても国籍で外されたが、差別ということにそれほど反発は感じなかった。それよりも、これからどうしようかという面が強かった」

 62年、第4回アジア野球選手権の韓国代表選手に選ばれ、そこで日本チーム相手に好投したことで、一躍注目される存在になった。そして韓国の社会人野球入りする。

 「貧しい家庭に育ったので、韓国で日本の倍の給料をもらい、衣食住が保証されたときは、本当にうれしかった。家族の反対を押し切って永住帰国をしたが、これが一生の別れと思い、飛行機の中でずっと泣いていた。しかし韓国に着いてからは、必ず韓国一の投手になると思ってがんばった。全体練習が終わってから、バスに乗らず一人で10㌔走って帰るなど、猛練習を重ねた。『負けたら終わり』と常に思っていた。泣くときはふとんの中で一人泣いた。給料の半分を食費に使い、とにかく体を鍛え上げることに集中した」

 国家代表チームのエースとして活躍したが、その後、肩を壊して現役生活を断念。指導者の道を歩む。

 「肩やひじがこわれたときは挫折感を本当に味わった。どうやって生きていこうかと思ったほどだ。そして現役生活が無理なら一番のコーチになるぞと思った」

 69年に高校野球の監督、その後も社会人と高校野球の監督を務めた後、82年、韓国プロ野球の発足に伴ってOB(現・斗山)のコーチに就任する。84年にOBの監督に就任以後、勝つための細かい野球を導入する。

 「韓国で初めてワンポイントリリーフやショートリリーフの制度を取り入れたが、当時はなかなか理解されなかった。『とにかく負けたくない』『勝つためにどうすればいいか』、その一点に集中した。自分の力だけを信じて生きてきたし、経営者や周囲に媚びたこともない。監督を長年やってきたが、こちらから仕事を頼みに行ったことはない。すべて向こうから依頼してきたのは私の誇りだ。雑草の生き方といってもいい。弱小チームの監督が多かったので、優勝したことはないが、最下位だったチームを翌年3位にしたのは、優勝より価値あることだと思っている」

 韓国で結婚したが、家族を球場に応援に来させることはしなかった。 

 「『パンチョッパリ(半日本人)』とか『イルボンノム(日本野郎)』とかやじられるのを聞かせたくなかったからだ。しかしやじられるのは成績がよかった証拠でもある。新聞にチョッパリ野球と書かれたり、現場に口を出すフロントと何度も衝突したことがあるが、自分のスタイル、野球人のプライドを捨ててまで、チームに残ろうとは思わなかった」

 韓国プロ野球8球団中、6球団で監督を務め、歴代2位の866勝をあげ、名将といわれた。現在はバレンタイン監督の下で働いている。

 「バレンタイン監督はチームの雰囲気、選手のコンディション、そしてデータ、この3つを重視する。私と考えの通じる部分が多く、勉強になる。イ・スンヨプ選手には技術的なことよりもメンタル面についてよく話す。自分の生い立ちについて話したこともある。君はまだ崖っぷちに立ってない。他人は飯を食わせてくれない。練習の中からはい上がれと話した。彼の力からするとまだ物足りないが、良くはなってきた」

 ロッテは現在2位と好調、プレーオフに向けて熱戦を繰り広げている。

 「いまは優勝目指してチーム一丸となって戦っている。今後の進路は未定だが、どんな形でも死ぬまで野球に携わりたい。在日の若者には、コリアンに誇りを持ち、実力を身に付けてグローバルな世界を生き抜いて欲しいと思う」