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2003/08/15

<随筆>◇禹長春博士の墓◇  崔 碩義 氏

 かって水原に遊んだ折に、韓国近代農業の父であり、育種学者として有名な禹長春博士(1898~1959年)の墓を訪ねたことがある。その墓は、水原市の西湖の近くにあった。

 昔の西湖は、風光明媚であったらしく、湖畔には名勝、杭眉亭がある。この「西湖」と「杭眉亭」という名称は、中国の詩人蘇東坡が、杭州の西湖の美しさを、絶世の美人西施の眉に例えたことに由来すると聞く。だが、目の前に見えるの水原の西湖の景観は、お世辞にも良いとはいえなかった。

 この西湖の周辺こそ、韓国農業研究の中心地で、国立ソウル大学校農科大学(日本の植民地時代の水原高等農林学校)をはじめ、農村振興庁、農業技術研究所、農業科学技術院、農村生活研究所、農業公務員教育院、畜産技術研究所、農業科学館、蚕糸科学博物館などが密集する。

 禹長春の墓所は、その農村振興庁の構内を横切って、麗妓山を少し上がった見晴らしのよいところにあった。墓の場所としては申し分のない場所である。よく見ると墓前には立派な博士の胸像と、李殷相の追悼詩を刻んだ石碑があった。私はしばらく墓前で黙祷し、故人に敬意を表した。

 禹長春といえば、閔妃暗殺事件に加担して日本に亡命した父親の禹範善と、日本人の母との間に生まれた在日2世である。最初は母国語も十分に話せなかったそんな彼が、父祖の国の求めに応じ決然と帰国した。そして韓国戦争下の食料難のきびしい時代に、育種学者として祖国と国民に大いに貢献し、その地で生涯を終えたのである。

 禹長春は東京帝大農学部農学実科を卒業し、農林省の農業試験場に長年勤務した。1936年にはその研究成果に対して母校から農学博士号を贈られている。すでに安定した地位と生活を手に入れていた禹長春が、日本人の妻と6人の子どもを日本に残したまま、どうして韓国に渡る決心をしたのか?

 それは父親の犯した罪を償うためであったのか? それとも禹長春自身、幼少のときから受けてきた民族差別に強い憤りを抱いていたことと関係があるのか? 

 これらの詳しいことは角田房子さんの『わが祖国』という著書に感動的に描かれている。

 ちなみに、禹長春の女婿(四女の夫)が一代で財を築いたあの京セラ会長の稲盛和夫氏であることはあまり知られていない。

 一言付け加えると、かってこの国の経世家は「農者天下之大本」という格言をよく旗印に掲げた。これは国民にとって食料が如何に大事であるか、それを生産する農民こそ、国家の根幹をなすということを強調したものだ。

 こうした点から考えると、現在、北の国民を飢えさせている指導者の為政は明らかに失敗である。責任を取って直ちにその地位から去るべきであろう。


  チェ・ソギ  フリーライター。立命館大学文学部卒。朝鮮近代文学史専攻。慶尚南道出身。近著に『金笠詩選』(平凡社・東洋文庫)がある。