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2007/09/07

<随筆>◇近くて遠い金剛山◇ 産経新聞 黒田勝弘 ソウル支局長

 近年、南北協力事業の一つとして京義線の復元が話題になっている。朝鮮戦争以来、南北軍事境界線で分断されていた南北縦貫鉄道を復元しようというものだ。南北で工事はもう終わり、復元された線路で先ごろ試運転も行われた。

 「京義線」はソウル(京=都の意味)と新義州をつなぐ鉄道ということで「京義」となっている。こういう路線のネーミングは日本風だが、それはさておき、韓国の鉄道時刻表には以前から京義線もちゃんと記載されている。ただこれまではソウルからムンサンまでだったのが、復元工事で臨津江を越え都羅山駅まで延びた。

 したがって最近は南北軍事境界線に近い都羅山駅までいけるので、京義線はちょっとした“観光列車”になっている。ソウルから一時間半ほどだから気軽に行ける。日本統治時代は京義線はさらに釜山までの京釜線につながり、北の方では鴨緑江を越えて“満鉄(満州鉄道)”につながっていた。京義線の一時間半はそうした歴史への想像力を刺激され、ことのほか感慨深い。

 ところで韓国の鉄道時刻票をみると「京元線」というのが出ている。時刻表ではソウル郊外の東豆川から新炭里までわずか三十四㌔しかないが、昔は北朝鮮東海岸の元山までつながっていたから「京元線」だ。この路線も南北分断で「新炭里」どまりになっている。

 昔はこの新炭里駅から北の方に鉄原駅があり、そこから「金剛山電気鉄道」というのが金剛山の麓まで通じていた。終点は内金剛駅で全長百十七㌔の路線だった。

 この鉄道は一九二四年(大正十三年)に日本の民間企業の手で開業された。あの時代に早くも電車というから驚きだが、金剛山鉄道によって昔からこの地の人々にとって一度は行ってみたい憧れの金剛山が身近なものになった。開業から十年で利用客は五十万人を超したという数字が残っている。

 韓国人を相手に金剛山鉄道をやればビジネスになる、カネさえ出せば誰でも憧れの金剛山を見れるーこうした発想が“近代化”だろう。日本統治下の近代化が金剛山を身近なものにしたのである。

 こんなことを思い出したのは、最近、金大中前大統領の夫人、李姫鎬さんが金剛山観光に行ってこられたというニュースに接したからだ。夫人の金剛山見物は女学生時代以来、六十数年ぶりのことという。日本統治時代、女学校の修学旅行などで金剛山旅行がよく行われたとか。

 李姫鎬夫人と同年配である筆者の知り合いの老婦人によると、彼女は女学校時代、京義線で開城から毎日、ソウルに通学していたという。彼女は今でも開城・ソウル間の京義線の停車駅の名前を全部暗誦できる。二人とも八十歳代だ。南北分断以前あるいは日本時代を知る人たちは少なくなりつつある。その結果“あるがままの歴史”も消えつつある。


  くろだ・かつひろ 1941年大阪生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信記者を経て、現在、産経新聞ソウル支局長。