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2007/06/08

<随筆>◇囲碁の愉しみ◇ 崔 碩義 氏

 今日は囲碁についてよもやま話をしてみたい。

 私はここ数十年来、囲碁の不思議な魅力に取り憑かれて、今ではすっかりその醍醐味に嵌まっている。しかし、肝心の棋力の方は一向に上達せず、せいぜい田舎初段どまりというところか。いうまでもなく、囲碁は時間の経つのを忘れさせる忘憂清楽の遊びで、その盤上の変化は、広大無辺で実に奥が深いといえるだろう。

 ここで中国の古い伝統を一つ紹介する。若い木こりが山に木を伐りに行って仙人たちが打つ碁に見とれた。ふと、気が付くと八十年もの歳月が過ぎていて、手に持っていた斧の柄が腐っていたという。こおから碁の別称を「爛柯」と呼ぶようになった由。また、竹林七賢の阮籍の話も鬼気迫るものがある。阮籍は碁を打っている最中に母親が死んだという知らせを聞くが、そのまま打ち続け、やがて酒を一口あおったかと思うと号泣して、一升の血を吐いたと伝えられる。

 かつて私は、人生には恋が最高の潤いだ、と真面目に思ったものだが、今では人生に囲碁なくして何の潤いぞやといいたい。いささか大袈裟な表現だが、それほど碁は面白いものだと実感している。難しい碁の奥義の話は専門棋士に任せて、われわれ素人はもっぱら、ざる碁に夢中になるのも又楽しからずやという心境だ。もちろん、良き相手と自由な時間に恵まれての話であるが。

 在日の人たちの趣味も多種多様であるが、ここに来て年配の人で碁を嗜む人が増えているように見受ける。「老人閑居して不善をなす」という言葉があるが、忙しく手を動かし、頭を使えば、ある程度ボケも防げるというものだ。また、各地で総連、民団という過去のしがらみを超えて、囲碁の会を開く試みが広がっていると聞くが、私もこれには大賛成だ。

 最近はアジア圏だけでなく世界的に囲碁の競技が盛んになっている。ひと昔前までは、日本の棋士が圧倒的に強かったが、急速に中国、韓国勢が力をつけ、なかでも韓国の李昌鎬九段が世界チャンピオンとして長期間君臨した。いまや韓国は囲碁強国を自慢するに至っている。

 それに、日本棋院に所属する金秀俊七段といった在日の若手棋士の活躍などもあって話題には事欠かない。

 余談だが、韓末の開化派の志士金玉均が碁を好み、日本に亡命中、多くの人士と交わったことはよく知られている。なかでも、本因坊秀栄とは互いに意気投合したという。彼らの友情が普通でなかったのは、秀栄が自分から金玉均を遠く小笠原、北海道にまで訪ねて行ったことからも窺える。こうした国境を越えた友情の話には、実にほろっとさせられる。

 最後に「取ろう取ろうは取られのもと」「相手の急所は見方の急所」「石奪って碁に負ける」「小を捨てて大に就け」といった碁の格言は、人生の教訓とも重なって、実に味わい深いものがある。これらにも触れたかったが次の機会にゆずろう。


  チェ・ソギ 在日朝鮮人運動史研究会会員。慶尚南道出身。最近の著書に『黄色い蟹 崔碩義作品集』(新幹社刊)などがある。