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2008/09/26

<随筆>◇もう一つの『かえり船』◇ 山形大学講師 権 純縣さん

 「波の背の背に揺られて揺れて/月の潮路のかえり船…」。戦後間もなく日本で大ヒットした、バタヤンこと田端義夫の『かえり船』の一節である。父の愛唱歌でもあり、酒の席ではフランク永井の「赤い灯青い灯…」の『俺は淋しいんだ』と共に十八番(おはこ)でもあった。父が切々と口ずさむ度に、私は子どもの頃からこの歌の持つ果てないもの悲しさと、胎内を懐かしむような温もりを感じていた。父がこの名曲にいつもどんな思いを込めているのかを私自身、年齢ごとに追うことにもなる。

 『かえり船』には傷心を胸深く抱いて、船路で故国を目指す情景が描かれている。長崎県佐世保の浦頭(うらがしら)引揚記念平和公園に歌碑が建立されているのだそうだが、敗戦後の昭和20~25年にかけて、中国大陸や南方諸島からの本港への引き揚げ者は約140万人、『岸壁の母』で知られる舞鶴港の3倍近くに相当する。記念碑がこの地に建った所以(ゆえん)でもあろう。戦中の混乱期、二十歳そこそこで玄界灘を渡り祖国を後にした在日一世の父にとっては、歌そのものでは目指す船旅の針路は逆になるが、 『かえり船』を歌いながら故国に残した両親や同胞(はらから)、故郷の山河への尽くせぬ思いを乗せて、東海(トンヘ)の波間に揺られ揺られ、魂は絶えず母国に帰っていたのではないだろうか。父に限らず、近現代史に国を離れ異郷の地にあった多くの在日僑胞(チェイルキョッポ)の胸に、もう一つの『かえり船』は今もひっそり生き続けている。

 頑健を誇った父も6年前に病に倒れ、その後二度目の骨折が深刻なダメージとなってしまった。母への大きな負担を考え、自宅介護から療養型介護施設への入所に踏み切って一年半。毎日食事介助に訪れる母を時には「オムマ! (お母ちゃん)」と呼び、私は父の妹になったりする。口数もめっきり減り、母が調子を取ると三番まで微(かす)かな声でも歌い上げた『かえり船』も、今ではもう一節(ひとふし)も聴かれなくなった。

 「入山料まで取る姥捨て山」とは実に謂(い)い得て妙(みょう)であった。今年4月から施行された『後期高齢者医療制度』を痛烈に揶揄(やゆ)したある野党政策委員長の言である。苦労に苦労を重ねた75歳以上の方々に、高負担・医療差別を強いるもので、腹が立つのを通り越して何とも情けない気持ちに沈んだ。税を湯水のように使い続けた挙句に、医療費削減の矛先を最も尊び大切に守るべき高齢者の皆さんに平然と向ける。自国民にもこうであるから、まして在日高齢者福祉への一段の配慮を促すことは、現政権下では無理な話かと心は曇る。

 口不調法(ぶちょうほう)で短気。でも人一倍情深く、涙もろい父。この文を編みながら終始、頭の中を父のかすれた歌声がめぐって、何度も目頭を押さえた。時代の理不尽な波浪に翻弄され、韓日の狭間(はざま)を漂った在日一世や二世。もう口ずさむことはできないが、父は夢うつつに『かえり船』で、祖国韓国と、いとおしい妻と過ごした第二の故郷日本を、往き来しているのかもしれない。


  クォン・スンヒョン 1959年福島県生まれ。在日2.5世(父1世、母2世)。昭和女子大文学部日本文学科卒。仙台韓国総領事館後、現在、山形大学講師、山形民団文教部長。著書に『無窮花の谷――日韓相剋の谷を越えて」(高麗書林)。