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2010/09/10

<随筆>◇壊れ作られる光化門◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授

 先日ソウルで光化門(クァンファムン)十字路に立って光化門を眺めた。光化門は景福宮(キョンボックン)の南側の正門である。北岳の正面に向かって正面中央に光化門、その西(左)に青瓦台(チョンワデ、大統領公邸)、東(右)に勤正殿(クンジョンジョン)の屋根が見え、世宗大王(セジョンデワン)像が目に入る。光化門の前にはチマ・チョゴリを着ている女性たちが多く、電線が見えず、車と信号、道路掲示版を入れず写真を撮ったら李王朝の風景そのものと思われそうである。

 青瓦台の西側の近くには私の出身校の景福中学、高校があるが、ここからは見えない。私は中学生時代には青瓦台の前身の景武台(キョンムデ)の正門の前を歩いて通学した。文化公報部・文化財管理局に勤めた時は景福宮の内側と外側の事務室で過ごした。10年近過ごしていたことになる。

 光化門は朝鮮初期に景福宮の南門として1395年に景福宮と共に建てられたが、1592年豊臣秀吉の朝鮮征伐(壬辰倭乱)の時に焼失した。そして旧韓末の1865年に大院君が景福宮を建立しともに光化門も再建した。また1920年代朝鮮総督府が朝鮮総督府庁舎を建てる時、この門を移転保存したが、1950年韓国戦争の時、木造中二階が火災でなくなった。1968年に朴大統領は石垣そのまま置いて上部だけ鉄筋コンクリートを使って復元し、懸版にハングルで「クァンファムン」と直筆で書いた。今年8月15日に光化門を壊して新しく李朝時代の木造の姿で建てなおして復元・公開した。それを「145年前の物」だと言っている。私はそれには納得せず、今年のものとしか思えない。作った時点から新しい歴史が始まるだけである。ただ歴史的な地点であるとは想起する。しかし歴史は遡れないのだ。

 光化門の内側の広場に建てられた朝鮮総督府庁舎は戦後中央庁として解放記念式、独立記念式をし、後に中央博物館に代わり、金泳三(キム・ヨンサム)大統領がそれを植民地時代の残滓ということで壊した。しかし歴史を消すこともできない。当時私は朝鮮総督府庁舎を壊すことに反対の短文を書いた。

 「復元」とは何であろうか。復元で歴史を説明することはできるが、歴史そのものを作ることはできない。日本では日韓併合100年と盛んに言われるが、ソウルでは大韓帝国の滅亡100年の展示会が行われている。日本植民地時代を認めたくないこと、歴史を消すような否定的、消極的な態度だろう。

 古いものを壊して、2010年に建てなおしたものは2010年のものに過ぎない。それは歴史物ではなく、2010年の美術品に過ぎない。「復元」とはいっても「レプリカ」であり、「偽造物」であり、悪く言うと「捏造」である。薛義植(ソル・ウィシク)が東亜日報に寄稿した文「壊れ作られる光化門」で、壊して作りなおしてもそれは「昔のそのものではない」と書いたのを、私は国語教科書で学んだことを覚えている。柳宗悦が光化門移転にも反対した真意を吟味すべきである。


  チェ・ギルソン 1940年韓国・京畿道楊州生まれ。ソウル大学校卒、筑波大学文学博士(社会人類学)。陸軍士官学校教官、文化広報部文化財常勤専門委員、慶南大学校講師、啓明大学校教授、中部大学教授、広島大学教授を経て現在は東亜大学教授・広島大学名誉教授。