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2014/01/17

<随筆>◇楽園の島パラオ◇広島大学 崔 吉城 名誉教授

 先日、日本植民地だった南洋群島の楽園島と呼ばれるミクロネシアの島の国パラオまでグアムを経由して行った。グアムでは、アメリカの厳しい出入国審査を受けなければならなかった。

 日本は熱帯地方の小さい島々を31年間植民地とした。当時、なぜ日本は3500㌔も離れた南の島まで足を伸ばしたのだろうか。時差はなく、日本語がほぼ通じる、戦跡を含む多くの日本文化が残っている。多くの日本人がほぼ不便を感じることなく暮らしており、日本の免許証で一カ月以内であればそのまま車の運転ができるという。

 私は旧日本植民地を広く回ってきたがここを最終地として見ておきたかった。パラオはスペイン、ドイツ、日本、アメリカに植民地とされた国であり、今日本にはどんな感情を持っているのだろうか。

 日本植民地の教育や統治には、戦後のアメリカ時代より良かったという人が多い。反日の強い韓国とはまったく異なった歴史認識をもっている。

 アメリカ人の日本史研究の大家であるマーク・ピーティのミクロネシア戦争史に関するNanyo(南洋)という本を機内で読んだ。彼もなぜ日本がこのように遠い南洋まで植民地にしたのか疑問をなげかけている。それは南国へのロマンと楽園の夢をもったのではないかと述べている。

 いま、その島では、交通信号もなく、ヤシ、バナナ、パパイヤ、各種花が咲いていて、のんびり暮らす人々の楽園であるといわれる。本当に楽園であろうか。私は熱帯雨林地域であり果物が豊富であろうと想像したが意外に少なかった。スーパーマーケットでも果物や野菜が貧弱なのには驚いた。野菜が足りなく長生きができないともいわれる。

 1914年日本海軍が「侵襲」したという所を案内していただいた。日本統治時代の南洋庁、戦車、トーチカなどにも案内していただいた。戦争当時使った大砲や戦車、防空壕など日本軍が残しものがそのまま置かれている。

 そこに居住するある日本人は「ここの人びとは、大統領まで親日的だよ」と言う。日本からの援助金でパラオでは初めての花火大会があったこと、東日本の災害とパラオの台風の災難で助け合った話を聞いた。

 短い滞在中に二度ナショナルミュージアムに訪れた。「日本植民地が現存」しているような展示のように感じた。原住民のための公学校で教育を受けた人の懐かしい当時の思い出と、戦争被害の証言を紹介している。

 パラオの歴史は全てが植民地史であり、それを自国史にするしか仕方がなかったのかもしれない。外国による開発近代化と表現している。日本が夢を賭けた旧植民地、まだ現に南国の理想郷として、多くの日本人が訪れる「楽園エデン」として生き残っている。


  チェ・ギルソン 1940年韓国・京畿道楊州生まれ。ソウル大学校卒、筑波大学文学博士(社会人類学)。陸軍士官学校教官、広島大学教授を経て現在は東亜大学・東アジア文化研究所所長、広島大学名誉教授。