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2021/04/30

<随筆>◇在日の微妙な立ち位置◇ 海龍 朴 仙容 相談役

 「日本人が好きだ」
 「それが親日派の証拠だ」
 「親日派のどこが悪い」
 「民族の裏切り者だ」
 「私がどこでどのように民族を裏切ったのだ」
 「日本人が好きだからだ」
 30数年前の在韓時代、このような他愛のない喧嘩を本国人(韓国)とやったことがある。何が原因だったか、けんかの始まりは忘れたが、相手は別段強固な民族主義者ではない。ごくごく普通の韓国人である。この人の頭の中には、日本・日本人を好きになってはならない、との思いが凝り固まっているように感じた。

 口調が激しくなり、ののしり合いになった。彼も日本人が相手なら、興奮することもなく、冷静に話をすることができたであろうが、私も一応韓国人、同胞だから許せない。まさに、彼の言う「親日派」は私そのもの。日本人のような振る舞いが憎かったらしい。日本で生まれ育った私は、日本人的な習慣で生きている。価値観もほぼ日本人。それでいて韓国人、だから始末が悪い。「おめぇはどっちの味方だ!」と、けんか相手はそんな思いを強く持ったようだ。

 韓国はパルパル五輪(88年)を機に大きく変わった。「世界はソウルへ、ソウルは世界へ」の標語は、我々在日にとっても誇らしかった。本国が国際化の道を駆け出す姿は感動的だった。それに呼応し、ソウルで起業した。国際化社会の実現に貢献できると考えたからだ。ソウルで出版社を設立、国際情報青年娯楽誌(雑誌)を刊行した。その時に同僚の本国人と親日派問題で衝突した。90年代の10年間をソウルで過ごした。事業は失敗したが、10年間は貴重な体験だった。

 本国生活体験以前、ずっと長い間思い悩んでいた。在日は日本に住み続けねばならないのか。そんな疑問で居心地悪く、心がモヤモヤしていた。日本を永遠のすみかと思ったことはなかった。帰国を視野に、本国生活をしていた。なじめなかった。月に一度、日本に戻るが、福岡空港に降りるとホッとし、心が穏やかになるが、仁川空港に到着すると、緊張で身が引き締まった。10年間、それは変わることがなかった。土着の心がない。そんな性根で仕事はうまくいかない。

 10年が限界だった。それでも本国の生活は思い残すことなくやったので、気持ちの整理はついた。心のモヤモヤも吹っ飛んだ。50歳にして日本永住を決めたのだった。日本は仮住まいじゃない。新しい人生がスタートできた。


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