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2004/12/17

<韓国文化>天上の弦、在日の虹

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              河正雄・光州市立美術館名誉館長

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    世界的なヴァイオリン製作者の陳昌鉉さん(都内の工房で)

 在日1世の世界的なヴァイオリン製作者・陳昌鉉チン・チャンヒョンさんの数奇な人生が、自伝、コミック、テレビドラマで紹介され、大きな話題を呼んでいる。在日2世で光州市立美術館名誉館長の河正雄(写真・上)さんが、陳昌鉉さんへの思いを寄せてくれた。

 陳昌鉉氏との出会いは1982年、在日韓国人文化芸術協会(文芸協)創立総会の時以来である。
 
 私は20代(1960年代)から「リーダーズ・ダイジェスト」の愛読者であった。73年、同誌に「東洋のストラディヴァリウス」と陳昌鉉氏が紹介されていた。在日1世が世界で読まれている雑誌で認められ、紹介されていた事を、自分まで誇らしく感じた。これが陳昌鉉氏との御縁の始まりであるともいえる。

 私は今もその本を大切に保管しているが、その後に続いた文芸協の行事等でお会いして、その都度、在日の文化についての熱い想いを聞き尊敬の念を抱いていた。しかし日本社会や文芸協の間では、陳昌鉉氏の名声や名誉について、どの程度のものかという特別な評価や話題にもならず、本人自身も静かに身を処していた。私は、その状態に対してもどかしい感情を長い間抱いていた。

 93年、私が光州市立美術館に美術品を寄贈するニュースを知った陳昌鉉氏は、「在日の快挙だ、誇りである」と祝意を表してくれた。その後、私は1999年に第2次、2003年に第3次と寄贈を続けていった。ところが、私は寄贈に当たり光州市に対し、何の条件も付けていなかった。そこで市側から、何か条件、要望はないかと問い合わせがあった。

「それならば、無名ではあるが将来有望なる青年作家を育てる事業(青年作家招待展)を行ってはどうか」と提案したところ、光州市立美術館のメーン行事の1つとして、私の誕生日の11月に毎年の恒例行事として開催することになったのである。

 私は陳昌鉉氏に、その経緯を伝えた。すると「私は在日2世としての勇志と、祖国に対する奉仕精神に共鳴している。私もあなたと同じ夢と希望を持って、前途ある青年作家たちを育ててみたい。私は慶北出身であるが、日本(木曽福島)が第2の故郷なら光州は私の第3の故郷となる。在日のイメージとして光州に永遠に残るでしょう。私のヴァイオリンを作品として河正雄コレクションに寄贈しましょう」と意表をつく申し入れをされた。美術館側からヴァイオリンが美術品になるのかという物議が挙がったが、超一流の芸術作品であることが認識された。

 2001年第1回河正雄青年作家招待展は、寄贈された東洋のストラディヴァリウスの名器が奏でるサラサーテ作曲「ツィゴイネルワイゼン」の演奏で開幕した。「ツィゴイネルワイゼン」(ドイツ語でジプシーの歌)スペイン生まれの名ヴァイオリニストであるサラサーテ(1844~1908)の代表作。

 陳昌鉉氏は在日もある意味では自己の存在を捜す彷徨い人、ジプシーの血を持つ。エネルギーが湧くと、最も愛聴しているこの曲を選んだ。光州市立美術館でクラシックが奏でられたのは、これが初めてのことで、観客に多くの感動と、意義を伝える事が出来た。

 陳昌鉉氏は翌2002年、ヴァイオリン、ビオラ、セロの計3点を追加寄贈して下さった。第1ヴァイオリン光州号、第2ヴァイオリン大邱号、ビオラ漢拏号、セロ白頭号と命名された。寄贈された楽器による光州市立交響楽団の四重奏(カルテット)の演奏から始まる河正雄青年作家招待展の開幕式は、「芸術は国を創り人を創る。国家は芸術に奉仕せよ」(アンドレ・マルロー)を合い言葉に第4回(会期2004年11月23日~2005年1月30日まで)を迎えた。

 陳昌鉉氏の人間愛と波乱の人生をSMAPの草椥剛主演でドラマ化したフジテレビ開局45周年記念企画・文化芸術祭参加作品「海峡を渡るヴァイオリン」(2004年11月27日)が放送された。

 真摯に己の道を貫いた陳昌鉉氏の人生が草椥剛の熱演によって見事に演じられていた。まるで陳昌鉉氏の魂が乗り移ったような鬼気迫る、迫真の演技であった。

 心に特に残った場面がある。オダギリジョー演じる相川先生が滝廉太郎(1879~1903)の「荒城の月」について陳昌鉉少年に語る場面である。

 「荒れた城に美しい月が出ている情景を思い浮かべなさい」「何故城が荒れたのですか」「勝っても負けても戦争をすれば城は荒れる」というくだりである。まさしく戦争と、それを起こす人間の愚行の悲しさを描いていると思う。それは我々の「恨」の原風景でもあり、拭い去ることの出来ないイメージである。

 在日というマイノリティーの環境にいたこと。マイノリティーであることをハンディとするのではなく、逆に弾みにして不可能を可能にする力に変えて生きる道を探す。
試練というハードルを乗り越えようと努力し続ければ天は力を貸してくれる。