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2006/12/01

<韓国文化>『未知との交信』続け15年

 広島県で八千代病院と有料老人ホーム「メリィハウス」を経営する在日2世の姜仁秀理事長(62)は、アマチュア無線技士1級を持つ大のハム愛好家でもある。毎朝、世界各国の様々な人と無線交信を続けて今年で15年になる。「未知との交信」の思い出などを寄稿していただいた。

 毎朝5時に起きて、無線室に入り電源スイッチを入れる。今日はどの周波数が一番よく入るかな、と下から上へと丹念にダイヤルを動かしていく。珍局(珍しいアマチュア無線局)が入れば呼び出し、他の局と交信中ならコールサインを出す。このようにして6時半まで世界各国の方との交信を楽しんでいる。もう15年間続いているこの毎朝の日課は、私にとって至福の時間である。

 これまで、国連加盟198カ国のうち、北朝鮮を除くすべての国と交信した。1万8000局以上になるが、特に局数の少ないアフリカなど途上国との交信が多い。通信会話は英語で、英語の勉強は欠かせない。7年前からは週1回1時間米国人教師から英会話を習っている。好きなことには、どんなに忙しくても時間をつくるもので、夜遅く飲んだ翌日も必ず定時に起きる。妻からは「目的があるから続くんですね」と呆れられている。

 私は小さい頃から工作好きで、小学5年の時に鉱石ラジオ(真空管の前の受信機)を自分で作った。これがやみつきの始まりで、ラジオ少年になった。ある日、短波放送で無線局同士が交信しているのが聞こえてきた。自分もやってみたいと思った。

 それで、中学3年の時に、友人のラジオ少年たちと一緒にアマチュア無線の国家試験を受けた。仲良くみんな合格したが、次の開局手続きで国籍条項にひっかかった。日本籍が条件であり、韓国籍の私だけが開局できなかった。悔し涙で、ただ他局の人たちの交信を聞くのみとなった。友人たちは楽しそうに交信しているのに、私だけは韓国籍だという理由だけでそれができず、不完全燃焼がたまった状態が続いた。

 1991年のある時、「在日でもアマチュア無線免許がとれるようになる」と専門誌に書かれているのを見て、私はこれに飛びついた。早速、電波監理局に問い合わせた。当時、韓日双方から相互乗り入れの要望が強くなっていて、間もなく韓日両国の郵政省の間で相互運用協定が結ばれた。時代のニーズとして実現したのである。韓国籍を持っている限りは閉ざされると思っていたので、大喜びだった。

 それからは毎日のように地元の中国電話局の人に電話で問い合わせ、担当者の人も熱意にほだされたのか、開局申請書など準備をしてくれた。忘れもしないその日、1992年8月26日。個人の無線局としては、在日初の開局となった。7JAPAN4AAL。私の局番号である。

 早速交信に入ると、パインアップ状態になった。つまり、蜂蜜に群がるようにブンブン集まってきた。在日初ということで他局から交信要求が引きも切らなかったのだ。さばくのに何時間もかかったので悲鳴をあげたことを覚えている。その時、「日本のコールサインはJA4なのに、なぜ7Jなのか」という疑問の声が相次いだ。

 7Jは在日を識別するための番号であり、ハム仲間から「それは明らかな差別ではないか」といった批判もあった。いまはもう違う番号でもいいが、私は痕跡を残すため、この局番号をいまも手離していない。私のことはハム仲間で少しは話題になり、4年前の12月号にアマ無線の有力月刊誌「CQハムラジオ」のカラー表紙を飾ったこともある。米専門誌「QST」にも紹介された。

 私が自宅裏に設置した高さ60㍍のアンテナは、電波が地の果てまで届くほど性能に優れている。「You are my first station(日本と初めての交信になります)。通話証の交換をお願いします」と返信用の切手付きで手紙が来たりした。

 高性能アンテナのおかげで、変わった出会いが数々あった。デンマーク領の人口4万6000人のセロ島からハム仲間のジョンが広島に訪れた。彼はレンタカー会社の営業部長をしていて、マツダの車も沢山扱っている。それでマツダから表彰されるため来日したのだ。身長2㍍近い長身の彼を料亭に招待した。その時、土足で上がろうとしたのである。ともかく、和気藹々と交流して喜んで帰っていった。

 フィンランドの男性で、「アンテナが見たい」と仕事で来日した東京から連絡が入り、広島を案内した。浴衣姿の若い女性に感激してもらい、翌日は宮島で神前挙式に遭遇。いまでも交流が続いている。

 こんなエピソードもある。ある夜、エクアドルの女子無線局と交信。私は、「カン・インス」と自分の名前を言うと、韓国語で「ハングサラン、アニヨ(韓国人ではないですか)」と返ってくる。彼女は夫と雑貨店を営んでいる韓国人だった。「タシ、マンナップシダ(また合いましょう)」と言って、その後5、6回交信した。

 内戦のモザンビークから医療品や物資の要請に急きょ、寄付を集めたこともある。また、サラエボの内戦で、「もう交信できない……」の声を残したままの方の声が耳に焼き付いている。

 無線を通じて、それぞれの国柄に接し、世界のことがわかる。スイッチを入れる瞬間、今日はどんな未知の世界と遭遇できるのか、わくわくした気分になる。気持ちがリラックスでき、人間を信じて交信できる。そこに価値があると思う。現実に立ち返ると嫌なことがあっても、こういう世界もあることを知ってストレスを解消できる。

 世界は、宗教対立、内戦、紛争などがいろいろな問題がある。ハム仲間は分かり合える間柄だ。みんなが様々な文化、人と接し、お互いが分かり合い平和の尊さを知れば、争い、諍いはなくなるのではないか。


  カン・インス 1944年、山口県生まれ。山口朝銀信用組合勤務後、金融・不動産・建築業経て、山口県に老人病院を2カ所建設。1992年、広島県高田郡八千代町に「医療社団法人・八千代会 八千代病院」を設立、現在に至る。