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2006/03/24

<韓国文化>飛鳥仏の起源は韓半島

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    ハン・ヨンデ 1939年岩手県生まれ。在日2世。上智大学卒。著書に「朝鮮美の探求者たち」(未来社)、訳書に「朝鮮美術史」(A・エッカルト著、明石書店)。美術史学会員。本紙に「柳宗悦と朝鮮」連載(2004年5月21日~2005年12月16日)。

 韓国慶尚南道の古墳から昨年1月、クスノキ木棺が出土。古代東アジアの文化交流研究の一助になると、韓日の学者の注目を集めている。在日の歴史研究家の韓永大さんに、同発見について文章を寄せていただいた。

 今年2月20日付の朝日新聞は、韓国慶尚南道昌寧郡松儉見洞7号墳(旧伽耶、5世紀末~6世紀初)からクスノキの木棺(長3・3㍍、幅0・8㍍)が発見されたことについて報じた。

 つづいて同紙3月7日付は、この問題で再三訪韓した早大・大橋一章教授のより詳しい記事を掲載した。同文中で大橋氏は「伽耶でのクスノキ木棺の発見に驚きと衝撃を受け、そして同僚の李成市教授とともに古墳内で大いに興奮した」と話した。

 筆者もその興奮の余韻の中で、この一文を草している。

 今回の発見は日本の仏教史の根源に遡る問題であり、木造仏の成り立ちに深く関わっているのである。そしてそれは「聖なる木」としてのクスノキが、1500年ぶりに突如、現代史の表舞台に登場した瞬間でもある。

 飛鳥時代(552-710)の木造仏は現在18例ほどが知られているが、1例(広隆寺のアカマツ像)を除き、すべてクスノキ製である。そしてクスノキは朝鮮には産しないので、それらはすべて日本で造られたもの、というのがこれまでの日本の学界の定説である。

 今回の伽耶のクスノキ木棺の発見、そして大橋氏の新たな見解はこうした「定説」の見直しを迫る動きとして大きな意味がある。

 クスノキによる造仏思想が日本で生まれたとする学界の「日本創案説」にかねてから納得できないでいた大橋氏は、今回の事実に基づいて「クスノキによる造仏の文化は中国南朝に発生し、百済へ伝わり、日本へは朝鮮からもたらされた」として、これまでの学界の「タブー」に正面から踏み込んで、従来の「定説」の修正を求めた。

 これに似たような例が過去にもあった。法隆寺に伝わる「玉虫厨子」で、透し金具の下に玉虫の羽根を張って装飾してあるので、この名がある。

 かつて、この「玉虫」は朝鮮には産しないという「研究」から、この厨子は日本製だとされた。

 しかしその後、韓国で(金冠塚、皇南洞98号南・北墳その他)でこれまで10例以上の同一手法の玉虫飾りが発見され、今ではこの説を唱える人はいない。

 さて今回のクスノキの産地について、「鉄の交易品として日本からきたもの」(李成市教授)、「日本から運ばれた可能性が高い」(国立昌寧文化財研究所・池ち炳びょん穆もく所長)など、日本や中国説がある。

 クスノキ木棺が韓国に例のない舟型(または割竹型)で、日本の記紀伝承にも符合することが、日本説の背景にあるかも知れない。

 かつて筆者は「飛鳥時代のクスノキと新羅」なる一文で、聖木・造仏材としてのクスノキを考察したことがある(『東アジアの古代文化』1994年秋)。その中で、かつて済州島には大樟樹が存在したこと、戦前日本人入植者がこれを乱伐し、代わりに若木を植えたこと、などの日本人専門家の証言を紹介した。今の済州島の小さな樟木とはこの時の若木ではないだろうか。

 白檀で仏像を造る文化がインドに生まれたが、やがて中国南朝では、中国に産しない白檀に代えて同じ香木のクスノキを利用したとの説は、これまでにも発表されており、説得力がある。

 そうした中で筆者が注目するのは、加羅国王・荷知が479年に南朝の南斉に使節を送り、朝貢していることだ。海路の可能性も考えられる。

 当時敵対関係にあった新羅の圧迫を受けて、伽耶が南斉に政治的、文化的接触を求めたとしても不思議ではない。

 一方で筆者は、クスノキが伽耶から出現した事実の方に、より大きな関心がある。かつて金冠塚からもクスノキの木棺片が出ており、新羅・伽耶から2例目の発見となる。

 これは歴代の百済王陵から発見される日本特産の「コウヤマキ木棺」の針葉樹文化とは際立った対照をなしている。コウヤマキはかつて「金松」ともいわれた。

 日本におけるクスノキの仏像製作については、書紀欽明14年(553)の条に、「仏教音楽が雷音のように響く海の中に、照り輝く樟木が浮いていたので、仏師・溝いけ邉への費あたいに命じてこれを取らせ、仏像を造らせた」の文言がある。

 「雷音のような響きの仏音」で思い出されるのは、允恭帝崩御の時、新羅が非常に多くの(80人)弔楽士を派遣しており、その時の音響であろう。この「海の樟木と雷音のような仏音」とは、まさしく新羅を暗示するものと考えている。また『日本霊異記』は池邉費氷ひ田だが樟木から造仏したとあるが、この人物が伽耶の安羅(咸安)出身の東漢氏族である点にも意味がある。

 筆者はかねてより、クスノキを聖木とする思想が新羅・伽耶にあって、この聖木で仏像を造る文化がそこで実践され、やがて日本へ伝えられたのでは、と考えていたが、今回の伽耶での発見でこの考えが多少補完されたものと考える。

 最後に、こうした私の考えを支えるものに、古代の新羅とクスノキとの強い結びつきを伝える素戔鳴尊(すさのおのみこと)の記紀伝承をつけ加えたい。

 スサノオ尊はクスノキの神(すなわち、熊野儿豫樟日尊・くまのくすひのみこと)を創り出した神であり、さらにクスノキで浮宝(うきたから)すなわち船を造れと指示している。昌寧の木棺が舟型である点で符合する。

 さらにスサノオ神は、クスノキとともに、新羅との関係も深い。それはスサノオが故郷(根の国)である新羅の曽尸茂梨(そしもり)に天降っている点に、端的に表現されている。こうしたことから、スサノオが新羅の神であるとの説はほぼ定まっており、さらには「スサ」の音が相通ずるところから、スサノオ尊は新羅の巫覡王・次次雄(ふげきおう・すすん)に淵源を持っているとの説が根強くあるのも事実である。