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2006/12/15

<韓国文化>東アジアのバレエ界発展を

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    原爆症の悲惨さを描いた「ヒロシマの残照」。広島で犠牲になった韓国人被爆者の冥福を彼らの祖国で祈った

 「第1回アジア・パシフィック・バレエ・フェスティバル」が11月、ソウルで開催された。東アジアのバレエ界発展に寄与するため、韓国バレエ協会主催で始められた催しで、韓日中から5つのバレエ団が参加した。日本から唯一参加した東京シティ・バレエ団(東京・江東区)の石田種生理事に、報告を寄せてもらった。

 「第1回国際アジア・パシフィック・バレエ・フェスティバル」は、アジアのバレエ界にとって、とても有意義な祭典であった。

 4月中旬、韓国バレエ協会(会長キム・ミンヒ)から、フェスティバルの大要を明記したファクスが送られてきた。

 それには、このバレエ祭はアジア諸国の文化の交流を促し、アジアの独創的でユニークなバレエを世界に表徴するためのイベントであることが宣言されていた。

 参加バレエ団は、上海、香港、韓国国立、ユニバーサルの各バレエ団に、ソウル・バレエ・シアターと東京シティ・バレエ団――いずれも個性的なバレエ団である。

 私は女性5人で日本の風土的味わいを表現する〈妖〉と原爆症の悲惨を描いた、〈ヒロシマの残照〉を上演することにし、〈ヒロシマ-〉を選んだその理由を認(したた)めた。

 ――45年8月6日の広島の原爆で、強制労働をさせられていた数百人の韓国人(当時は朝鮮人)が犠牲になった。私は彼らの冥福を彼らの祖国で祈りたい。北朝鮮の地下核実験が強行されたいまが、この作品を上演するのに最も相応しい時ではないのか――。

 7日、ヨン劇場でリハーサル。ヨン劇場は古い博物館を取り壊して、05年10月末に新築された博物館に併設された劇場で、客席は862。舞台の間口15㍍、奥行き14㍍の中劇場で、〈妖〉はこの舞台にきちんと収まった。

 8日は〈ヒロシマの残照〉のリハーサル。照明が心配だったが、持って行った沢田祐二の照明プランを、忠実に再現してくれた。

 初日の幕が開く。最初は韓国国立バレエ団の〈バック・ステージ〉――私は同バレエ団から依頼されて、78年に〈シンデレラ〉を、87年と97年には〈エスメラルダ〉を振付しているが、当時とは比較にならないほどダンサーの技術が上達していて驚愕した。

 上海バレエ団の〈赤い扇〉の次が、ソウル・バレエ・シアターの〈バレエのタンゴ〉-よくバレエ風にアレンジされて、心地いい。

 香港バレエ団の〈眠れる森の美女〉に続き5番目が〈ヒロシマの残照〉――原爆症で全身に包帯を巻いた俯(うつぶ)せた少女が、舞台奥に映しだされると、客席は凝結した。彼女が這(は)いだし固まった五体を捻転(ねんてん)させると、そこに同じように包帯を巻いた、子ども(マネキン)がいる。

 少女は子どもを歩かせ、自分も立とうとするが、その度に無様に転倒する。少女はマネキンを背負いいざりだす。しかしそれも空しく、崩れ落ち固結する。客席はしばらく無言。と、すすり泣きが聞こえ、拍手が湧いた。

 最後はユニバーサル・バレエの〈デュエンデ〉――動きが奇抜で、作品の迫力に圧倒された。

 9日の幕開きは、上海バレエの〈愛の悶(もだ)え〉――大戦中の女性秘書とジャーナリストの秘めた恋物語。次は香港バレエのミュージカル仕立のコメディー。こんな遊びがあってもいい。

 そして東京シティの〈妖〉――人間の二面性を表わすために、ダンサーは顔の半分を白と黒に塗り分けている。彼たちの影が爽やかで、底光りしていた。

 振り返ってみると、この催しは、アジアのダンサーたちが、スクラムを組むための祭典だったように思われる。来年は日本で開催されるか、香港か――それは分からないけれども、この烽火(のろし)を消してはならないだろう。

 さて、東京シティ・バレエ団に2人の韓国人ダンサーがやってきたのは05年4月。それが、国立バレエ団に6年いて、ユニバーサル・バレエ団に移ったキム・ボヨンと、ユニバーサルで6年間活躍していたチョ・ミンヨンであった。均整のとれた体で、テクニックも正確。不自由だった言葉を覚えるにつれて2人は次第に頭角を現した。

 キムはノーブル・ダンサーで、〈くるみ割り人形〉の王子でデビュー。そして、私は7月の〈白鳥の湖〉で、彼を王子に抜擢(ばってき)――観客の盛大な拍手を浴びた。

 個性的なチョは、〈カルメン〉の悪役で他を圧倒するほど鋭い演技を見せた。いたる所で柔軟な表現力を発揮し、バレエ団の貴重な存在になっている。

 韓国のダンサーが共に力を合わせ、バレエ団はアジア的規模で発するに相違ないと信じている。


  いしだ・たねお 1929年島根県生まれ。慶應義塾大学美学科卒。68年発起人の一人として東京シティ・バレエ団を創立。以後同バレエ団を拠点に活動。韓国バレエ界からの振付依頼も多数あり。98年舞台芸術功労賞受賞。