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2008/12/12

<韓国文化>韓日近現代史知る貴重な資料・李方子さんの遺品発見

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    右から3人目が李方子さん、左へ李垠殿下、梨本宮伊都子妃(李方子さんの母)、梨本宮守正王(同父)=1945年撮影

 李王朝最後の皇太子、李垠(イ・グン)殿下に嫁いだ日本の元皇族、李方子(イ・バンジャ)さんの写真、日記、手紙などの資料684点が、李方子さんと親交のあった日本人男性によっていままで保管されていたことが、このほど判明した。2カ月前に資料を託された在日2世の河正雄さん(69)が、「韓日現代史を知る貴重な歴史的資料」として、韓国政府に寄贈した。

 今回発見されたのは、李垠殿下との婚礼記念として撮影したガラス製の原版写真、韓国統監府初代統監となった伊藤博文が、韓国各地を視察した時の様子をまとめたアルバム写真58枚、幼い頃の李垠殿下と父親の高宗皇帝の記念写真、そして韓国が植民地支配から解放される1945年に撮影された家族とのスナップ写真など。

 李垠殿下と婚礼が決まった直後の日記帳、李夫妻が長男の晋を連れて韓国に里帰りしたときの日程表、母の伊都子妃からの便りなど、これまで知られていなかった資料類ばかりだ。

 李方子さんの日記帳からは、本人が知らない間に婚約が決まった後の複雑な感情が読み取れ、また伊藤博文の視察写真からは、植民地下にあった韓国の苦しみが浮かび上がるという。日本の敗戦前後に撮られた梨本宮家の家族写真は、「家族が二度と会うことが出来なくなることを考えて撮影された」可能性があるとのことだ。

 李方子さんは梨本宮家の第1王女として生まれ、裕仁親王(後の昭和天皇)のお妃候補として名前があがったこともある。日本が韓国を植民地下に置いた1920年、当時日本に人質同然に暮らしていた李垠殿下と結婚した。「内鮮一体」を進めるための2人の意思と関係なく決められた政略結婚だった。そのため「悲劇の王女」とも呼ばれた。

 李垠殿下は10歳で(人質として)日本に渡り、学習院、陸軍士官学校に進み、陸軍中将になった。戦後は王族の身分を失い、李方子さんも皇籍を離脱。日本で生活した後、韓国に渡って李垠殿下と再出発。身体障害者や知的障害者のための施設を運営するなど、福祉事業に後半生を捧げた。東洋経済日報社も福祉事業を長年支援してきた。

 70年に李垠殿下は73歳、89年に李方子さんが87歳で死去した。

 今回発見された資料は、李方子さんの記録映画制作に携わった山口卓治さん(79)が、李方子さんから約30年前、「散逸すると困るから」と、10数回に分けて手渡され保管を頼まれたもの。

 山口さんに資料を託された河正雄さんは、直後に韓日の研究家に連絡した。そして、「韓国に李方子さんの手紙や日記はほとんどなく、夫婦の写真も数少ない。韓日の激動の時代の貴重な記録であり、韓国政府に伝達するのが筋道」として、4日に駐日韓国大使館に寄贈したものだ。今後は韓日両国で共同研究した上で、早ければ来年にも両国で一般公開される。

 河さんは、「不幸な時代に人権を侵害された李夫婦についての理解を深め、韓日の近現代史について改めて考える一助に、この資料がなればと思う。歴史を知ることは、韓日の未来志向の関係を築くことにもつながる。共同研究を進めてほしい」と話す。