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2010/04/16

<韓国文化>高麗の王侯貴族が愛した水注

  • 高麗の王侯貴族が愛した水注①

           青磁陽刻筍形水注 高麗時代 12世紀 22・5㌢

  • 高麗の王侯貴族が愛した水注②

            青磁瓢形水注 高麗時代 12世紀 27・1㌢

 企画展「高麗時代の水注」が、東洋陶磁美術館(大阪市北区)で開催中だ。高麗時代の王侯貴族は、水注(水や酒を注ぐための器)にかぎりない魅力を感じ、青磁を中心に数多くの水注が作られたという。同展では約30点が展示される。

 水注(すいちゅう)は水や酒などを注ぐための器で、典型的な形は、胴の上部に口が開き、胴の下部側面から細長い注ぎ口が伸び、反対側に把手が付くというものです。現在、日本ではこの器形を水注と呼びますが、中国では執壺、韓国では注子というのが一般的です。

 水や酒などを注ぐための注器は、中国ではすでに新石器時代に陶製のものの初現があり、やがて青銅でも作られます。六朝時代以降、仏教をはじめとする西方文化の影響のなかで様々に姿を変え、唐(7~10世紀)にいたって、壺もしくは瓶形の容器に把手と細い筒状の注ぎ口のついた水注が現れました。さらに宋代には、金属器を模した多様な水注が数多く作られるようになり、茶器としても本格的に使用され始めます。

 日本ではすでに縄文時代に注器が現れ、古墳時代の須恵器を経て平安時代(8~12世紀)に至って中国・越窯の影響を受けたと思われる緑釉や灰釉の水注が出現しました。朝鮮半島では、新石器時代に注ぎ口の付いた壺が確認でき、三国時代には象形注器が製作され、おもに酒などを盛る祭器として使われたと考えられています。

 高麗時代におおきな発展を遂げた青磁は、10世紀前半ごろ中西部地域を中心とした京畿道始興(キョンギドシフン)市芳山洞、黄海道峰泉(ファンヘドボンソン)郡円山里などに中国・五代越窯青磁の技術が伝わったもので、各種製品や窯道具に類似性が指摘されています。これらの窯場が運営された大きな目的は、おもに茶器や祭器類を製作するためでしたが、水注も越窯に似たものが作られました。つまり、青磁の水注は、当初は茶具として作られた可能性を考えることができます。

 ただし、高麗青磁水注のなかには酒に関する詩銘を持つものがいくつかあり、酒器としても使われたことは間違いありません。また、そうした詩銘のなかに、「金瓶」と「沙瓶」とを比較したものがあり、水注が「瓶」とも呼ばれていたことが窺えます。

 朝鮮半島の中西部地域で誕生した高麗青磁は、やがて中国越窯の影響を強く受けた初期の段階を脱し、主要生産地が康津(カンジン)や扶安(プアン)に集中するとともに、中国景徳鎮窯の白磁や青白磁の造形を新しく受け入れるなど、次第に独自の展開を遂げていきます。

 高麗水注は胴の形状によって、肩の張った肩衝(かたつき)形、瓜形、球形、瓢形、瓶子形、象形の六つに大きく分けることができ、さらに頸の形状を加味することにより細かな分類が可能となります。中国に端を発する水注ですが、とりわけ瓶子形や象形、また植物を模した瓜形、流れるような曲線を持つ瓢形などは高麗で独自に発展したものです。さらに、多彩な技法のなかでも象嵌技法による雲鶴文や葡萄文、四季折々の草花文などに、中国には見られない独自の装飾性があり、高麗陶工たちの創意が窺えます。

 高麗時代は貴族を中心とする社会でした。かれらは宋の文物を好み、生活文化全体の中に中国趣味を多く取り入れます。高麗王宮のあった開城では、中国のさまざまな器皿の中でもとくに、景徳鎮窯の水注が一定量集中的に出土しており、新たな支配階層である貴族文化が成立するとともに、水注が珍重されていたことが窺えます。

 『高麗図経』によれば、高麗では朝廷の儀礼や宴ではかならず茶を用意し、人が飲み尽くすのを見ると喜ぶが、残すと不機嫌になるため、無理にでも飲まざるを得ないとあり、一方、宮廷でも庶民の間でも酒が好まれ、王の飲むものには清酒と法酒の二種類があり、庶民は味が薄く色の濃い酒を飲むとのことです。現存する高麗青磁水注のなかに、「琴を抱えて酒を買って酔い、ひねもす楊の下で横になる」という象嵌銘を持つものがあり、飲酒を好んだ貴族の生活が目に見えるようです。

 現在、水注の出土する高麗墳墓は数ヵ所知られ、なかでも中期に集中し、貴族や上位の官僚を埋葬した石槨墓が中心となっています。これらから出土した水注は、陶器が1点あるのを除き、ほかはすべて青磁で、金属製のものはありません。

 近年、大阪府下の金剛寺開山堂から高麗青磁瓜形水注が出土しました。その水注の中には「阿観上人」の焼骨が納められており、彼の没年が1207年であることから、水注の年代も13世紀初を下がらないことが分かりました。それでは何故、13世紀初に水注という器に納骨されたのでしょうか。日本では当時、古瀬戸が高級なやきものを生産していましたが、その成立期(12世紀末)に模倣の対象となった中国陶磁は、四耳壺や瓶子(梅瓶)、水注などでした。それらは東海から関東を中心に、火葬蔵骨器としての出土例が多く、また、消費地遺跡における出土例では、圧倒的に鎌倉に集中しています。つまり、東国の武士や社寺をはじめとする上層階級がこうした器形の陶磁を愛好していたのであり、金剛寺開山堂の高麗青磁水注も、畿内の上層階級の人々の価値観を反映しているのでしょう。
(図録より抜粋)


■企画展「高麗時代の水注」■

日時:開催中(7月25日まで)
場所:大阪市立東洋陶磁美術館
(大阪市北区中之島)
料金:一般500円、学生400円
電話:06・6223・0055