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2016/03/04

<韓国文化>韓流シネマの散歩道 第20回 各国で巡回上映『青春の十字路』                                     二松学舎大学 田村 紀之 客員教授

  • 韓流シネマの散歩道 第20回 各国で巡回上映『青春の十字路』

    植民地時代を舞台にした映画『アリラン2003』

  • 二松学舎大学 田村 紀之 客員教授

    たむら・としゆき 1941年京都生まれ。一橋大学卒。東京都立大学経済学部教授、二松学舎大学教授などを経て、現在は同大学客員教授、都立大学名誉教授。

◆無声映画とせりふの意味◆

 無声映画が静かなブームを呼んでいる。あちこちで鑑賞会が開かれ、若い男女の弁士が活躍している。

 活動大写真時代への郷愁、レトロ趣味などと揶揄するむきもあるが、これが本来の映画だと思わせる、清々しさが堪らないというファンもいる。

 映画は現在、激しい技術の波に押し流され、行き先が見えづらくなっている。制作と配給の壁、映画産業とゲーム産業の境界もなくなりつつある。映画の将来を占うためにも、映画の原点を振り返ってみようするのも自然の勢いだろう。そして実際に、今さらながらサイレント映画はじつに面白い。

 かつて、羅雲奎(ナ・ウンギュ)が脚本・監督・主演で作った『アリラン』(1926年)はフィルムがいまだに発見されず、幻の名画となったままである。

これを、『桑の葉』(既述)で知られる李斗鏞(イ・ドゥヨン)監督がリメークした。十本目のリメークとされているが、今回の李斗鏞作品『アリラン2003』がもっともオリジナルに忠実な復活だろうとのこと。

 いっぽう、フィルムは残されているのだが台本がなく、字幕も一切挿入されていないのが『青春の十字路』(34年)。安鍾和監督が画面と矛盾のないようにストーリーを構成し、弁士と歌手を添えて、活弁とオペラを一体化したような舞台に仕上げた。

 釜山映画祭で好評を博して各国を巡回、昨年末の東京国立近代美術館フィルムセンター「韓国映画特集」で日本にも紹介された。

 無声映画では、冗長なせりふは削りに削って、必要最小限度に抑えざるをえない。この要請を逆手にとって、ホウ・シャオシエン(侯孝賢)監督の台湾映画『悲情城市』(既出)は、聴力障害をもつ主人公とその恋人との筆談内容を、音楽を消した画面に挿入して悲劇にアクセントをつけてゆく。

 同じく台湾の『郊遊(ピクニック)』(13年)は、台詞はおろか画像の動きも極度に抑えて、幼い子供づれで廃墟をさまよう男の孤独の内面を照射する。脚本から編集までに3年をかけたという監督のツァイ・ミンリャン(蔡明亮)は、この間に、プロットから人物まで、削れるものは徹底して削ってしまったという。彼は本作をもって、自らの「引退宣言」としている。

 余計な台詞を削るという手法が多用・乱用されるのがラブ・シーン。フランス映画『ラブ・バトル』(13年)が典型例だが、情事に言葉は無用とばかり、文字通りの無言のバトルを延々と続ける。ここでは、セリフは視覚の邪魔者とされている。


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