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2013/07/26

<トピックス>大阪・正祐寺の高麗鐘                                                          大同クリニック 姜 健栄 院長

  • 大阪・正祐寺の高麗鐘①

    修復された正祐寺の高麗鐘

  • 大阪・正祐寺の高麗鐘②

    元の破損鐘

  • 大阪・正祐寺の高麗鐘③

    蔚山の展示に協力した筆者㊧は蔚山博物館館長から表彰された

 2010年4月より、大阪市の正祐寺境内に高麗鐘の修復鐘と元の破損鐘が並んで置かれるようになった。この名鐘は長い歴史に翻弄され、元の寺院名にちなんで、韓国では臨江寺鐘、日本では平等寺鐘、正祐寺鐘と称されてきた。

 この修復鐘は4年にわたる長期間を経て、大阪市教育委員会の補助金を得て完成した。鐘の鋳造所は大阪市東成区の「大谷相模掾鋳造所」であり、神仏銅像、梵鐘、国宝物修理を行う作業所である。

筆者は大谷社長の求めに応じて、破損前の鐘写真、拓本や龍頭写真を提供した。残欠龍頭については韓国国立中央博物館にある清寧四年銘銅鐘の龍頭写真を渡した。

 今回の破損鐘復元は、日本に渡来した高麗鐘52口の中でも、正祐寺鐘のようなケースはごく稀であり、貴重で幸運な梵鐘といえよう。

2003年より筆者は「蔚山から来た高麗鐘」として、大阪の正祐寺、宮崎県佐土原町や韓国慶尚南道蔚山市を訪れ、この鐘の史跡調査を行ってきた。天禧三年(1019年)の在銘があり、高さ116・7㌢、口径68・2㌢、重さ213㌔の比較的大型で美麗な鐘である。渡来鐘の中でも、傑作品の一つに数えられている。

修復鐘は高さ、口径とも元の臨江寺鐘と同じであるが、重さは285㌔となっている。

2003年3月、「戦時下の大阪・失われた文化財」の特別展示会があり、この破損鐘も元国宝として展示された。戦前に撮影された元の姿の写真を筆者が所有していたので、「ピースおおさか」の要請で、その写真フィルムを提供した。以来、私とこの鐘との深い関わりが始まった。

 05年3月、大阪教育委員会文化財保護課はこの鐘の修復に係る援助を決定し、鐘を大阪市東成区の大谷相模掾鋳造所に運搬した。3年の予算を計上し、07年3月末には作業を完了予定であったが、09年10月に完成した。そして2010年4月に正祐寺に引き渡された。本鐘の龍頭および甬(旗指し)は平等寺時代に破損しており、修復時の手本を、清寧四年銘銅鐘(高さ84・7㌢、1058年、韓国国立中央博物館蔵)のものにした。これは国立中央博物館学芸部長崔応天氏の提供によるものである。

千年の時を超えて、この鐘は現代人に鐘銘を通して古い歴史を語りかけている。元は宮崎県佐土原町の平等寺にあったもので、村民の雨乞い、疫病払いの鐘として信仰の中心をなしていた。1874年、正祐寺の住職・観空が大阪の古物商から入手したことが鐘に追刻されている。

 蔚山にあった高麗時代の鐘が、いかなる経路で、日向の平等寺に伝えられたかは明らかでない。倭寇の将来品とか、室町末期に朝鮮半島を往来していた当時の海賊衆なり武士たちがもたらしたものと考えられている。

 銘文によれば、「高麗国慶南蔚山の監督僧侶の彦修と官吏金瑶含等が「聖寿天長」を祈願して形が端正で音響清明な重さ五百斤の青銅鐘一口を天禧3年に臨江寺に懸けた」とある。

本鐘の特徴の一部を紹介すると、「竜頭は独角をそばたてて、前方に突き出した口を大きく開き、右前肢を前に出してその四爪間に宝珠をつかみ、左前肢は後ろに踏まえている。甬(旗挿し)の表面は五段の装飾からなる。この撞座を中心に、左右から向き合った天人像が浮き彫りになっていて、各々雲上に趺坐し、向かって右は笙を奏し、左は琵琶を弾いている。鐘の左右側面下部に如来像が抽出され、円形の頭身光を備え、蓮華座上に結跏趺坐している。如来像の下には、巻雲文を配し、その左右の両脇に金剛力士像を控えている」。金剛力士像を描いているのは、日本では、本鐘のみである。

 鋳造から千年近い歳月の間、日本に渡来した後、度重なる危険をくぐり抜けたが、ついに昭和の大戦にあい、異国の地で無残にも鐘本来の姿を無くしてしまった。残念というほかない。いずれかの日に、臨江寺鐘を復元して、蔚山の市庁または近郊の古寺に懸けたいと願っていた。それがこの度、復元するに至り、世界遺産保護という観点からも喜ばしいことである。

 この鐘は蔚山博物館で1年間にわたり展示(12年6月1日~13年5月30日)された。筆者は12年6月末に蔚山を訪れ、蔚山博物館で展示されている鐘を観察してきた。

 そして1年間におよぶ博物館での展示の後、2013年6月3日、大阪の正祐寺へ返還された。