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2014/02/28

<トピックス>切手に描かれたソウル 第41回 「三一独立運動」                                                   郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京都生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に描かれたソウル 第41回 「三一独立運動」

    1959年に発行された三一独立運動40周年記念切手

◆1919年3月、独立宣言発表、デモが全土に◆

 韓国の三大祝日のひとつとされる三一節は、1919年の三一独立運動を記念して、事件から27周年の記念日で、解放後まもない1946年3月1日に国家慶祝日に指定された。日本統治時代の1919年3月1日、大韓帝国最後の皇帝、高宗の葬儀を前に、孫秉熙をはじめとする天道教・キリスト教・仏教の指導者など33人がパゴダ公園(現在はタプコル公園)に集合し、独立宣言書を読みあげることになっていた。

 しかし、公園には、彼らの予想をはるかに超える数の学生たちが集まっており、混乱を恐れた孫ら33人は、近所の中華料理店“泰和館”に集まって、宣言を朗読して万歳三唱した後、朝鮮総督府に自首して逮捕された。その後、パゴダ公園に集まっていた学生たちは独立万歳を唱えて市内をデモ行進。これに一般市民たちが合流して行進は数万人規模に膨れ上がり、さらに、独立を求めるデモが朝鮮全土に拡大した。

 各地のデモは2カ月ほど続き、次第に暴徒化したこともあって日本側官憲によって鎮圧されたが、事件をきっかけに、朝鮮総督府による武断統治の限界が明らかになったほか、憲兵警察制度は廃止され、集会や言論、出版の自由もある程度認められるようになった。しかし、なによりも朝鮮のナショナリズムが覚醒されたという点で大きな歴史的意義がある。

 そうした重要な事件だけに、三一運動に関する切手は何度か発行されているが、ソウルの歴史散歩という観点からすると、まずは1959年に発行された事件から40周年の記念切手を上げることができよう。

 切手は、太極旗とたいまつを掲げる手に、パゴダ公園で孫秉熙らが独立宣言を読み上げる場面を描いたもの。図案は、当時の韓国切手のデザインを数多く手がけた姜博が制作した。

 もともと、運動の出発点となった鍾路の仁寺洞入口にあたる場所は、古い寺があったところで、朝鮮王朝第7代国王の世祖(在位1455~68)は、1464年、自らの犯してきた殺生を悔いるため、廃寺の跡に円覚寺を建て、多くの堂宇や門、大蔵経殿、十層石塔を建立した。パゴダ公園ないしはタプコル(塔洞)公園との名は、この石塔に由来する。

 切手では、画面の中央よりやや右側に描かれている石塔の高さは約12㍍。“亜”字形の3層基段、平面の3層と角張った4層が積み上げられた形態で、各層には仏教にまつわる彫刻が施され、内部には仏舎利と円覚経が奉安されている。

 なお、石塔は1962年に韓国の国宝第2号に指定されたこともあって、現在は保護のためのガラスケースに覆われており、切手のように塔が剥き出しになっているわけではない。

 さて、円覚寺は16世紀初頭、仏教の排斥に熱心だった第10代国王燕山君(在位1494~1506)の時代に、王が管弦を楽しむための掌楽院に変えられ、その後、石塔を残して仏教建築はすべて撤去された。

 石塔の周囲が公園として整備されることになったのは、国号が大韓帝国と改められた1897年のことで、当時、総税務司を務めていた英国人J・M・ブラウンが近代式庭園として整備した。

 孫秉熙らが独立宣言を読み上げた八角亭は、その際に設けられた八角形の東屋で、大韓帝国時代には音楽の演奏が行われていたという。公園の近くに楽器の専門店街“楽園商街”があるのは、こうした歴史的背景によるものだ。