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2016/05/20

<トピックス>切手に見るソウルと韓国 第67回 韓国の石炭産業                                                         郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京都生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に見るソウルと韓国 第67回 韓国の石炭産業

    71年発行の「経済発展」の切手に石炭産業が取り上げられた

◆漢江の奇跡支えるも、現在は廃業の危機に◆

 韓国の石炭産業を牽引してきた大韓石炭公社(以下、石炭公社)が廃業の予定であることが明らかになった。石炭公社は、昨年末の時点で1兆5989億㌆(約1470億円)の負債を抱えているだけでなく、毎年1000億㌆(約90億円)近い赤字を計上しているから、やむを得ないだろう。

 日本統治時代の朝鮮での炭鉱開発は半島北部に集中していた。1944年度の朝鮮全体の石炭の生産量は745万㌧(926万㌧の消費量とのギャップは日本内地産の石炭によって賄われた)で、単純計算では、月間約62万㌧になる。ところが、米ソの南北分割占領により、北朝鮮地域からの石炭の供給が止まると、45年9月から翌46年3月までの間、南朝鮮の生産量は月平均6373㌧にまで激減。鉄道の運行もままならなくなった。

 事態を深刻に受け止めた米軍政庁は、46年3月、石炭生産委員会と石炭鉱業資金制度を設け、朝鮮石炭配給会社による国営炭の販売を開始。その後、石炭の生産は徐々に回復し、1948年4月には8万4351㌧に達したが、それでも、南朝鮮の石炭需要を満たすことは到底できず、日本からの輸入に頼らざるを得なかった。

 48年8月、大韓民国が正式に発足すると、アメリカは北朝鮮に対抗しうる経済力を韓国に付けさせるべく、江原道の炭田開発に対する大規模な支援を開始。韓国政府も50年に石炭増産5カ年計画を策定し、49年に104万4000㌧だった石炭の生産を54年には249万6000㌧に増やすことを目標に、具体的な政策を開始した。その主な担い手として、大韓石炭公社の設立準備が進められていた50年6月25日、韓国動乱が勃発する。

 炭鉱施設が破壊されただけでなく、従業員も戦前の3分の1にまで減少。石炭の生産量も年間7万8174㌧にまで激減し、韓国の石炭産業は危機的な状況に陥った。ともかくも石炭の生産を確保するために公社設立の準備が急ピッチで進められ、50年10月には総裁の許政以下、役員人事が発令され、11月には最初の政府出資金40億㌆が払い込まれ、ようやく石炭公社が発足した。

 翌51年1月、石炭公社は釜山に臨時本部を置いて旧石炭配給会社の事業を継承するかたちで、翌2月から石炭の需給事業を開始した。

 その後、石炭公社は戦災復旧3カ年計画を策定し、石炭産業の再建に乗り出したが、戦時インフレが昂進したことから生産原価が急騰して資材の確保が困難になり、また、収益の悪化から従業員給与の遅配も相次いだことからストライキも起こるなど、経営は苦難の連続だった。


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