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2017/05/19

<トピックス>切手に見るソウルと韓国 第78回 巨済島・記念切手                                                         郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京都生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に見るソウルと韓国 第78回 巨済島・記念切手

    「巨済島捕虜収容所遺跡公園」記念切手

◆朝鮮戦争で避難民殺到、文大統領の両親も◆

 今月10日に新大統領に就任した文在寅の出身地、巨済島は韓国南東部、南海上の島で、2010年に開通した巨加大橋を使えば、釜山中心部からは1時間ほどで往来できる。日本と朝鮮半島を結ぶ海上交通の要衝であることから、1274年の文永の役では、日本に侵攻する高麗軍の基地として用いられたほか、16世紀末の文禄・慶長の役(壬辰倭乱)では日本軍の拠点となり、周辺海域は玉浦海戦、漆川梁海戦・閑山島海戦などの舞台となった。

 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、巨済島は後方基地となり、兵士の訓練所とあわせて捕虜収容所も置かれた。

 同年9月15日、マッカーサー率いる国連軍が仁川上陸作戦を成功させると、釜山付近まで侵攻していた北朝鮮の朝鮮人民軍は潰走。国連軍は9月28日にはソウルを奪還すると、余勢をかって38度線を越え、10月末には中朝国境の鴨緑江まで到達した。これに対して、中国は「唇滅べば歯寒し」として北朝鮮を支えるための〝人民志願軍〟を派遣。ゲリラ戦に秀でていた中国側は人海戦術を展開し、波状攻撃を繰り返して国連軍を包囲分断。中国の参戦を予期していなかった国連軍は総崩れとなり、2週間ほどの間に、38度線以南まで後退を余儀なくされた。

 国連軍が撤退を始めると、その後を追って南へ逃れようとする北朝鮮の住民が続出。彼らは興南埠頭に集まり、南に向かう船を待ち続けた。

 韓国・国連軍は、彼ら自身が急遽撤収を迫られたこともあって、当初は避難民を輸送することを想定していなかったが、同胞を救出したいとの韓国側の強い要請により、12月15日から韓国・国連軍の輸送船と戦車揚陸艦が動員して避難民を輸送するための作戦が開始された。中でも12月20日に興南に入港した米貨物船、メロディス・ヴィクトリー号は、定員1000人あまりのところ、搭載していた武器等の荷物をすべて下して1万4000人もの避難民を乗せたことで、〝奇跡の船〟として有名になった。

 12月24日まで行われた興南撤収作戦では、韓国・国連軍の軍人10万5000人、避難民9万8000人が無事に脱出。メロディス・ヴィクトリー号も、25日、巨済島・長承浦の港に到着した。

 当時の巨済島の人口は10万人弱で、軍関係者と捕虜収容所の捕虜を加えても17万3000人ほどだったが、年末にかけて軍人・避難民あわせて15万人が一挙に押し寄せたのである。

 撤退作戦の一連の経緯は、14年の韓国映画『国際市場で逢いましょう』の冒頭でも取り上げられているから、ご存じの方も多いかもしれない。

 さて、15万人の避難民の中には、北朝鮮で公務員をしていた文ヨンヒョン、カン・ハンオク夫妻も含まれていた。

 巨済島に逃れてきた文ヨンヒョンは島内にあった捕虜収容所の労働者として働き、妻のカン・ハンオクは鶏卵の行商をして、ようやく最低限の糊口をしのいでいた。そこへ、1953年1月24日、2人の間に生まれたのが、今回、新大統領に当選した文在寅である。

 文在寅が生まれてから約半年後の7月27日、朝鮮戦争は休戦が成立したが、


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