ここから本文です

2017/08/18

<トピックス>切手に見るソウルと韓国 第81回 ソウルの龍山                                                         郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京都生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に見るソウルと韓国 第81回 ソウルの龍山

    植民地時代に発行された龍山駅駅舎の絵はがき

◆朝鮮王朝時代から発展、現在は韓国鉄道網の拠点に◆

 今月12日、15日の光復節を前に、ソウルの龍山駅前広場と仁川の富平公園に「日帝強制占領期間に強制徴用された労働者の魂を記憶する」として、民主労総・韓国労総などで構成された〝強制徴用労働者像建設推進委員会〟が〝強制徴用労働者像〟を設置した。

 龍山駅前広場は国有地で、推進委員会は今年3月1日にも像の使用を計画していたが、土地の所有者である政府が許可しなかったため、実現しなかった。今回、推進委員会は政府の許可を受けないまま、像の設置を強行したため、像の趣旨に対する賛否とは別の次元で、推進委員会の行動には批判も少なからずあるという。

 推進委員会は今回、像の設置場所として龍山駅前を選んだ理由として、「龍山駅前広場は、日本やサハリンに送られる強制徴用労働者の集結地だった」と説明している。たしかに、龍山駅から京釜線を南下して釜山港から日本に向かった人は多かったろうが、それなら、釜山港に銅像を設置してもよさそうなもので、それにもかかわらず、釜山ではなくソウルを像の設置場所に選ばれたのは、やはり、像設置の政治的な〝効果〟を優先させたためだったのだろう。

 さて、問題となったソウルの龍山は漢江北岸の地域で、朝鮮王朝時代からソウル城外の交易拠点として発展してきた。

 また、首都防衛の拠点でもあり、1882年に壬午軍乱(大院君らの煽動を受けた兵士たちが閔氏政権と、同政権を支援していた日本に対して起こした反乱)の際には、大院君の要請を受けて介入した清国軍はここに駐屯地を構えた。

 壬午軍乱後の1884年には龍山港が設けられ、ソウルにおける外国の文化・文物の窓口となる。また、行政上は、1896年に設置された龍山坊が現在の龍山区のルーツとなった。

 1899年9月18日、三井・三菱・渋沢ら日本の財閥によって設立された京仁鉄道合資会社によって、朝鮮最初の鉄道として京仁鉄道が開通するが、この時の京、すなわちソウル側の起点は漢江南岸の鷺梁津で、漢江以北には鉄道はなかった。翌1900年に漢江鉄橋が開通してからのことで、これにより、鷺梁津から漢江を渡って北岸の龍山、南大門、京城(現ソウル駅の北方にあった駅で、現在は駅としては存在しない)まで路線が延長。ようやく、京仁線の体裁が整った。

 1904年に日露戦争が勃発すると、日本軍はソウルに進駐して日韓議定書を結んだが、この時、日本軍は龍山地区の土地990万平方㍍を買い上げ、兵営を置いた。これが、日本統治時代の広大な龍山基地の原点となる。

 一方、朝鮮における鉄道網の拡充が進み、1905年に開通した京釜線(ソウル=釜山間)および京義線(ソウル=新義州間)、さらに1914年に開通した京元線(ソウル=元山)のソウル側の起点は、いずれも、龍山駅であった。

 これは、ソウル中心部にあった南大門駅が、当初は、小さな停車場にすぎず、日本軍の駐屯地にも近い龍山駅の方がはるかに大きな駅舎を構えていたためである。

 しかし、日本統治下で京城府の人口が急増すると、龍山駅も飽和状態に達したため、1923年、


つづきは本紙へ