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2017/11/17

<トピックス>切手に見るソウルと韓国 第84回 自由の家(板門店)                                                         郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京都生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に見るソウルと韓国 第84回 自由の家(板門店)

    韓国・自由の家(板門店)の切手

◆南北間で唯一の公式の接点場所に◆

 今月13日、韓国の合同参謀本部は、同日午後3時31分ごろ、北朝鮮兵士1人が板門店の軍事境界線を越えて亡命し、軍事境界線南側50㍍地点、JSA(共同警備区域)内の〝自由の家〟北西側で肩やひじを銃で撃たれて負傷した状態で発見されたと発表した。

 板門店経由での北朝鮮兵士の亡命は、1998年2月と2007年9月に発生しているが、JSAで「銃声」が響いたのは1984年11月、北朝鮮の板門店観光ツアーに訪れていたソ連人大学生が軍事境界線を越えて韓国領内に闖入したのを機に、南北双方で銃撃戦になって以来、33年ぶりだという。

 1950年6月に始まった朝鮮戦争の休戦交渉は、1951年7月10日から開城で休戦交渉が開始された。

 当初、国連軍側は、交渉は1カ月程度で妥結するものと楽観視していたが、会談は議題の設定をめぐって最初から難航。①議題の採択、②非武装地帯の設定と軍事境界線の確定、③停戦と休戦のための具体的取り決め、④捕虜に対する取り決め、⑤双方の関係各国政府に対する通告、という5項目を議題とすることが決定されたのは7月26日のことだった。

 その後も、軍事境界線は、現在の勢力圏の北側にすべきとする国連側と、あくまでも38度線にすべきとする共産側との溝は埋まらず、交渉はただちに暗礁に乗り上げる。そして、8月22日、共産側は、国連軍機による開城上空の侵犯を理由に会談の打ち切りを通告した。その後、2カ月半の中断の後、会談は再開されるが、その際、会談場所として選ばれたのが板門店だった。

 板門店は、ソウルと新義州(朝鮮半島北西部の中朝国境の都市)を結ぶ京義街道の一寒村で、北緯38度線の南方5㌔、北朝鮮・開城市の東方9㌔の地点、現在の休戦ライン上の西端に位置している。ちなみに、ソウルからは北西に62㌔、平壤からは南方に215㌔、それぞれ離れている。

 休戦会談が行われるようになった当初、この地は、板門店ではなく、ノルムンリ(板戸の里)と呼ばれていた。当初の会談場所は、現在、テレビなどでおなじみの〝板門店〟と呼ばれている場所から約1㌔北側で、周辺には、草屋4棟の他は、会談場として使われたプレハブ2棟、簡易式の宿舎3棟しかなかったという。

 その後、会談場が現在の地点に移された際、この会談に参加する中国の代表の便宜をはかり、会談場近くの雑貨店を漢字で「板門店」と表記したことから、この名が定着した。

 さて、10月25日に板門店で再開された休戦会談は、紆余曲折の末、11月27日になって「現在の接触線を基にする」との国連側の主張に沿って、


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